たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

服部文祥『サバイバル登山家』を読み終えた。
この人は「生命体としてなまなましく生きたい」から、食料も燃料もテントも持たずに山に分け入っていく。


「考える」ということは、ただ抽象的なだけだったら意味がなくて、「生きる」こととつながっていて初めて意味がある。
もちろん、むちゃくちゃ抽象的な哲学書にも、むちゃくちゃ抽象的なことを考えながら生きている、という意味で生き方は反映されているのかもしれないけど、今の生活者としてのぼくには抽象的過ぎる哲学はむなしく思える。
と、書きながら、なんだかむちゃくちゃ抽象的な哲学書を読みたくなってきた。


とにかく、『サバイバル登山家』の服部さんは、
「生きようとする自分を経験すること」
とか
「生命体としてなまなましく生きたい」
とか、生きることを当然としないという意味での哲学的思考を行いつつ、それを実践するために山に登る。
ぼくは、小説の中で何かを経験するようには、この本を読む中で「なまなましく生きる」ことを疑似体験しはしなかったけど、思考と実践のバランスを楽しみながら読むことができた。
ただの行動者でも、ただの思索者でもないバランスがこの人の魅力だ。


と書きつつ、それほど非日常に入り込まなくても「なまなましく生きる」ことは可能なのではないかとも思う。
それは、「実践から思考へ」、とは逆の、「思考から実践へ」へのフィードバックによってだ。
この世について、あるいは生きるということについて「考える」ことは、この世界を、この生を違和感を持ってとらえることにつながり、それは生きることを「なまなましく」感じることにつながる。
だいたい、哲学とはそういうものではないだろうか。


そういえば先日、「生きるとは不思議なことだ」というようなことを繰り返し唱えていた池田晶子が癌を患って死んだ。
ぼくは銀座で行われた彼女の講演をわざわざ聞きに行ったくらい好きだった。
「考える」ことと「生きること」という意味で、彼女が癌を告知されてから死ぬまで、どのように「生」に、あるいは「死」に対したのかに興味がある。それこそ、彼女の哲学が試されるときだからだ。