雨ふる日曜日の午前中、カフェにきている。むさしの森珈琲。
最近、文明的生き方と野性的生き方のことをよく考える。文明化された環境のなかでぬくぬくと生きることが、生きることの手応えを失わせているのではないかというような意見は、まっとうに思われる。自然を感じたり、自分の命の危機を感じたりすることが、生を輝かせたという経験を自分もしたことがあるから。
一方で、文明化された環境のなかで優雅に生きることの喜びも知っている。それを「いい気なものだ」と否定する必要はないのではないかとも考えているのだ。
そういうときに思い出すのは、ウディ・アレン監督の『それでも恋するバルセロナ』という映画のことだ。映画の主旨とはちがうところでおもしろがってしまっているのかもしれないが、友達同士でバルセロナに旅した二人の女性が恋する画家が、享楽主義的で魅力的だった。
享楽主義というのは、それほど簡単ではない。なによりも、自分がほんとうに求めているものを知らねばならない。世間や社会による拘束から自由でなければならない。
ぼくたちが「やらなければならないこと」をしてしまい、「したいこと」をしないのは、そのための強さを持っていないからだ。
もちろん、ただ生き延びることだけでもたいへんなこともある。だけど、人はただ生きるために生きているわけではない。「人はパンのみに生きるにあらず」ということだ。キリスト教におけるこの言葉が意味するのは、「物質的な面だけでなく、霊的な部分を大切にせよ」というようなことだろう。しかし、現代において人が「霊的な部分」を大切にする、というとき、自分が何をしたいのかを意識することがまず重要なのではないかと思うのだ。
自分はほんとうは何をしたいのか。それを考えるとき、文明化された生活から抜け出したいと考えることも十分ありえるだろうけど。