悟りを開いたけど、けっこう維持するのがたいへんである。
最初に開いたときは勢いがあって、すべてが変化した感触があったけど、ずっと羽ばたいていないと墜落してしまうような感じ。もっと、ちゃんと開けたら安定するのだろうか。
だけど、いちど悟った状態がわかると、悟っていない状態を意識することはできる。
頭のなかがちらかっている感じ。そして、「今」に生きておらず、思考というフィクションのなかに生きている感じ。「無意識」の状態と言ってもいい。思考に没入してしまって、自分が思考にとらわれていることを意識できていない。
悟っていない状態は、自分の思考と感情に入り込んでいる。3D映像を見せる乗り物にのっているようなもので、ブンブン振り回されて頭が混乱している。
いちど悟ったとしても、いつのまにかその乗り物に乗っているから気をつけないといけない。
悟りというのは、自分の思考や感情から開放されることである。
そのためには、自分のものと思っていた思考や感情が、どんなふうに生まれてくるかを知ることが大切だ。
何も考えていない状態を作って、そこに最初の思考が生まれる瞬間を観察すると、けっして自分の意志でないことがわかる。
自分の思考や感情というのは、自分のものではない。空に雲が生まれたり、窓の外を鳥が横切るのと同じようなものだ。でも、その乗り物に乗ってしまうと、だんだん膨らんでいって、自分を拘束するものになってしまう。
過去の嫌なこと、未来に待っている嫌なこと、そんな思考にとらわれて、感情を振り回されてしまう。
悟ることは、その乗り物から降りるだけだ。
次の2つのことを同時に行う。
1.自分の感情を見つめている別の視点を作る。
2.自分の思考や感情から一歩観察するのと同時に、自分の体の内側や、外側を感じる。
思考や感情は、ほんとうは自然現象と同じようなものなのに、それが自分だと思いこんでしまっている。そのストーリー=フィクションにとられないためには、他の自然現象(自分の体も自然現象の一つである)と同じ距離で観察すればいい。
そうすると、3つめの感触が必然的に生まれる。
3.「いま」という時を感じる。
焦りや不安、落ち込みなどは、フィクションとしての「エゴ」がもたらすものだから、必然的に「いま」にゆったりと落ち着いて向き合うことができる。
ほんとうだったら、4つめとして、次のフィクションを信じられるといいのかもしれない。フィクションとしか思えてないところが、僕の浅い部分かもしれないのだけど。
4.ほんとうの自分は、この肉体でもこの思考でもなく、「大いなるもの」、つまり「すべて」、つまり「神」であると感じる。
これができたほうが安定するのかもしれないけど、「うさんくさい」と感じてしまう。
もう少し、このことについて考えてみよう。