たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

ここ1週間ほど仕事が忙しくて、退勤時刻も遅くなりがちだった。具体的に忙しくなる理由が見当たらないのに、仕事の忙しい時とそうでないの時の波があるのは不思議だ。だけど今日はいつのまにか忙しさの波が引いていってしまったようだった。少しでも隙ができるとだらけ心が湧いてきて、職員健康診断でX線検査の順番を待っているときとか、昼休みとか、あるいはコンピュータが立ち上がるまでの時間とかにも吉田修一の『春、バーニーズで』をちびちび読んでしまった。


あまりにするすると読めてしまうから、どの作品を読んでどの作品を読んでいないのか分からなくなってしまうけど、吉田修一の小説はすばらしい。


『春、バーニーズで』の文庫本の裏表紙にある説明には、「デビュー作『最後の息子』の主人公のその後が、精緻な文章で綴られる連作短編集」と書いてあって、「最後の息子」は読んだはずだし、それほど昔のことでもないはずなのに、読み終わるまで「最後の息子」というのがどういう作品なのかを結局思い出せなかった。
小説でも映画でもマンガでも、その作品世界のリアリティを決定するひとつの要素は、作品世界の背後にどれほど広大な描かれない世界が広がっているか、だと思うのだけど、『春、バーニーズで』が、「最後の息子」という作品の続編であるなら、背後に「最後の息子」の世界が隠れているはずで、だけどそれを思い出せないのは、かえって今回の読書を楽しいものにしてくれた気がする。


ぼくは、たとえば推理小説のオチのように、はっきりとしたラストが嫌いだから、『春、バーニーズで』の中に収めれれている短編の終わり方がたいてい、読者を居心地の悪い気分にさせるくらい唐突であるのを、とてもかっこよく感じた。
ヘミングウェイの文体みたいな、描かないことのかっこよさ、というものを一つの基準として、世の中の小説を分類することができると思う。
森鷗外だとかヘミングウェイだとかの文体をマイナス方向の極とすれば、その逆の、ごてごてとさまざまな色を塗り重ねていくような文体というのがあって、その極にあるのは、…誰の文体だろう。


何かを表現する際には、スキーのジャンプでたとえると、どれだけ遠くまで飛ぶか、その着地点の問題がある。つまり、表現する前から、おそらくちゃんと着地できるだろうと思うようなものは、たいして遠くまで飛んでいないということ。ほんとうにおもしろいものは、着地できるかどうかが自分でも不明なまま表現されたものではないかと思う。村上春樹なんかはそのことにかなり意識的だけど、吉田修一も、安全なあたりに着地してしまわないように、警戒している雰囲気を感じる。上手い、ということは、着地点が書く前からわかってしまいがち、ということでもあるから、危険なのだと思う。


吉田修一が描かないことで指し示そうとしているものがどのくらいの遠いのか、については実際は確信を持てないでいる。だけど、こころざしは感じるし、なんというか、人間という存在のなまなましい感じ、は表現されているから、いいんじゃないだろうか。


ちなみに、間に差し挟まっている前康輔という人の写真は都市の孤独みたいな雰囲気をかもしだしているし、それから安部克昭という人の装丁もおしゃれでよかった。