これはすべての人にとっての重要テーマではないのだろうか?
教員の仕事の良いところは夏休みが長いところで、だから毎年、夏休みを充実させることに挑戦している。人生のミニチュア版としての夏休みなのである。
しかし、今まで、「完璧な夏休みだった! 充実していた!」と思ったことはおそらく、一度もない。
これではまずい。夏休みを充実させられない者が、どうして人生を充実させられようか。
ところで、今年の夏休みには、いくつかの個人的に取り組みたいテーマがあった。
1.自己の再構成:よく思い出せないのだけれど、自分の中身を再構成しようとしていた。もう一度思い出してみよう
2.引きこもり:少し前に読んだ『億り人の引きこもり生活』という本が興味深くて、今年は引きこもろうと思っていた。何年か前に魚釣りばかりしていたのとは大きく異なる。
2の引きこもりについて、説明したい。
この本の作者(内向型の頂点)は、ベンチャー企業で働くことでFIREを達成し、株式運用だけで毎日たらたらと過ごしている。ポイントは、多くの人は、こんなに引きこもっていたら、退屈でつらくなったり、人生の充実が得られなかったりすると思うのだが、この人はそうした野心とは無縁である点だ。ここには重要な何かがある、と僕は思った。
そうしたときに偶然目に止まったのが、以前から気になっていた『暇と退屈の倫理学』だった。ここでは、人々が退屈をおそれるあまり、消費社会におけるカモになってしまっていると言っている。たしかに、退屈な時間をおそれ、刺激を求めて金を使うという循環には思い当たるところがある
だから、そうした「消費」活動に振り回されるのではなく、具体的な体験そのものを味わうことが重要である、ということになる。特に興味深かったのは、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を参照しながらの退屈の分類だった。僕はいままで、何かに没頭することが「充実」だと思っていた(ハイデガーもそう言いたそうだ)。だけど、『暇と退屈の倫理学』において國分功一郎は、そうではなく文化的な気晴らしこそが、退屈と没頭の間にあって、もっとも人間的で価値ある生き方だと述べている(おそらく)。
以前、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』を観たときに、「ここには何か重要なものがある!」と感じたことを思い出す。人生において、「生きるために生きる」以上のこと。『暇と退屈の倫理学』の中では、次のように表現されている。
「人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。」
國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p.325). 新潮社. Kindle 版.
芸術は大切だ。あるいは、食文化を始めとするさまざまな生活文化は重要だ。
本書の中でも言っているが、結論だけだとバカバカしい感じだが、大いに納得する。人生の充実に必要なのは、熱狂ではない。だって熱狂からは必ず冷めてしまう。熱狂だけを求めるなら、その人は麻薬中毒患者と同じようなものだ。だから、文化がある。芸術がある。そして、文化や芸術を味わうためには、勉強が必要だ。いいじゃないか。
だから、最近話題の千葉雅也著『センスの哲学』を読んでいる。なかなか悪くない読書の流れだと思う。もちろん、僕にとっての大切な文化である「文学」について浸る夏にもしたい。
ところで、今年の夏休みのもう一つのテーマであった「1.自己の再構成」については、どうなっているんだっけ? 7月には精神的な危機があったはずなのだけど、休みに入ったら、喉元過ぎれば熱さを忘れるという状態になって、ほんとうに分からなくなってしまった。でも、AI(8月はChatGPTではなくClaudeという生成AIを使っている)と相談しながら、これも考えてみよう。