たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

スリランカ料理に感動する

先日、水戸に出張したとき、以前の同僚と会って、昼食をともにした。彼が教えてくれたのが、茨城大学近くの「コジコジ」というスリランカ料理の店だった。以前にも彼と同じ店に入ろうとして、客が並んでいて断念したことがある。彼は水戸に来るたびにそこで食べるばかりか、夕食用にテイクアウトもするらしい。

大きな丸い皿に、時計のように並んだ様々な料理と、その中心に細長い米があって、それらを自由に混ぜながら食べる。スパイスを使った料理をカレーというなら、すべてカレーなのかもしれないが、いわゆるカレーとは違っている。

すべての料理が、違った味と違った食感で成り立っていて、料理を味わうことがそのまま芸術作品を味わうことであるような経験だった。つまり、自分の感覚を広げるような経験。こういう感動を料理から得るのは久しぶりのことで、しばらくは個人的なスリランカ料理ブームになりそうな気がする。

 

 

椎名林檎の曲「NIPPON」を中毒気味に聴いている

椎名林檎が登場した頃はすごくかっこいい文学的な感じの曲を作る人がでてきたなあ、すごい、と思って最初のあたりはCDも買っていたけど、

そのうちしばらく離れていて、しかも僕はサッカーへの関心がまったくないのでワールドカップ番組のテーマソングとしても聴くことがなく、

先日、たまたまラジオで流れてきた「NIIPPON」という曲がちょっと気になって、改めて検索して聴いてみたら、あまりにもかっこいいと思ってしまって、それ以来、麻薬中毒気味に繰り返し聴いている。

この感じは、しばらく前に10FEETの「蜃気楼」に同じ症状が出て以来のことだ。

 

あまりに聴きすぎて飽きてしまうのが怖いのだけど、中毒なので、聴かずにはいられない。

もちろん、歌詞もアレンジも椎名林檎のボーカルもかっこいいが、その曲が気に入るというのは、ほとんど肉体的なものだと思うので、結局は説明のしようがない。

いまさらなのだけど、椎名林檎自体への興味も出てきてしまっている。このタイミングでライブチケットが販売されたらなんとしても買ってしまうところだけど、ライブの予定はないようである。

といっても、椎名林檎には他にもいい曲がたくさんあるとはいえ、〈ど真ん中〉なのは「NIIPPON」だけなので、ライブに行く必要はない気もする。

このレベルでど真ん中に来る曲が、世界には、他にも存在して、ただ出会えていないだけなのだろうか? それとも、そのときの自分にとってのど真ん中は、世界に1曲しかないのだろうか?(そんなはずはない、とは言えない気がする)

「このレベルでど真ん中に来る曲」というのは、単に珠玉の名曲、ということではない。この僕という個人にとって(あるいは今の自分にとって)特別な曲ということで、それはどういうことなのだろう?

もちろん、Amazon Musicで「類似した楽曲を再生」してもど真ん中の曲は見つからない。

 

どういうことなのかはわからないけど、数多ある曲の中で、なぜこの曲にこれほどど真ん中感を感じてしまうのか、興味深い。

 

コーチャンフォーつくば店について、反省した。

以前、この日記にコーチャンフォーの悪口を書いた。開店初日とかそのくらいのときに行ってがっかりした件について。

でも、あれから何度か訪れて、意外といいじゃん、と思うようになっている。おそらく本が増えて本の並びが充実してきたからだろうと思うのだけど、あのときに書いた、本の目利きが重要なんじゃないか、というのは間違いかもしれないとも思う。

 

というのは、常総道の駅にできたtsutayaに比べたら、ずっと良い、と思うからだ(また悪口になってよくないのだけど)。

常総道の駅のtsutayaは(あるいは、柏の葉tsutayaも同じようなものかもしれない)、〈おしゃれ〉を目指して、逆に本好きの目から見ると本当にダサい。

こんな感じなのが好きなんでしょ? なんとなく知的な感じでしょ? という主張が、押し付けがましいというか、うるさい。客の知的レベルを舐めることでしか、ああいう本の選びかたはできない。あれで常総道の駅のtsutayaの本が売れないからといって、客の知的レベルのせいだと勘違いされては困るよな、と思う。

そう考えると、最初に出会ったころのヴィレッジヴァンガードの本の並びに感動したけど、今では感じるいやな感じも同じかも。売り手の趣味がいいと思ってる感じ、が、うるさい。もうちょっと謙虚になれないかね。

 

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(マーク・ボイル著 紀伊國屋書店)を読んだ


マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでいる。

 

イギリス人のマーク・ボイルという青年が、1年間、お金を使わずに生きると宣言して生きた記録。

「ぼくが思うに、売り買いと与え合いのちがいは、売春とセックスのちがいのようなもので、行為の背後にある精神が大きく異なる。相手の人生をもっと楽しくしてあげられるからというだけの理由で、代償なしに何かを与えるとき、きずなが生まれ、友情が育ち、ゆくゆくはしなやかな強さを持ったコミュニティーができあがる。ただ見返りを得るために何かをしても、そうしたきずなは生まれない。」(P628)

 

ここで示されているのは、資本主義によって失われたものだ。

 ほとんどの人は、生まれたときから「おまえに安心をもたらすものは(地域社会ではなく)何と言ってもお金だよ」と言われて育つ。

作家の橘玲は、「幸福の『資本』論――あなたの未来を決める『3つの資本』と『8つの人生パターン』」の中で、マイルドヤンキーの幸福を説明していた。たとえ収入が少なくても、たとえばみんなで一緒にコストコで買い物してみんなで食事をしたりすることで幸せを感じることができる。つまり、〈社会資本〉がその人の幸福を担保しているというわけだ。

僕には、そうしたコミュニティーを維持していくのは、とても精神的な負担に思える。だから、そういう人は〈金融資本〉に頼ろうとするし、現代においてはそれがメジャーな生き方なのだろうと思う。

でも一方で、この本を読んでいると、お金が世の中に導入されることで(あるいは、資本主義というマネーゲームが主流の世の中になることで)、価値基準が数字で測れるカネというものにシンプル化してしまい、ムダという豊穣が失われたということも実感する。たんなる楽しみのために働くという選択肢があまりない。この本の中でマーク・ボイルは、とても楽しそうに生きている。

「助けてあげた相手が助けてくれることはないかもしれないし、助けたことのない人から助けてもらうかもしれない。通常の貨幣制度とのちがいは、コンピュター画面上の数字で安心の度合いをはじきだすか、好意で何かをしてあげたときに生まれる人とのきずなに安心を見いだすか、である。一方では高い塀がはりめぐらされ、もう一方では強固なコミュニティーが築かれる。」(P629)

〈きずな〉かあ。僕には胡散臭い言葉に思えていたけど、そういう考え方の方が貧しいのだろうか。ともかく興味深く読んだ。

 

 

 

文明的生き方と野性的生き方

 雨ふる日曜日の午前中、カフェにきている。むさしの森珈琲

 最近、文明的生き方と野性的生き方のことをよく考える。文明化された環境のなかでぬくぬくと生きることが、生きることの手応えを失わせているのではないかというような意見は、まっとうに思われる。自然を感じたり、自分の命の危機を感じたりすることが、生を輝かせたという経験を自分もしたことがあるから。

 一方で、文明化された環境のなかで優雅に生きることの喜びも知っている。それを「いい気なものだ」と否定する必要はないのではないかとも考えているのだ。

 そういうときに思い出すのは、ウディ・アレン監督の『それでも恋するバルセロナ』という映画のことだ。映画の主旨とはちがうところでおもしろがってしまっているのかもしれないが、友達同士でバルセロナに旅した二人の女性が恋する画家が、享楽主義的で魅力的だった。

 享楽主義というのは、それほど簡単ではない。なによりも、自分がほんとうに求めているものを知らねばならない。世間や社会による拘束から自由でなければならない。

 ぼくたちが「やらなければならないこと」をしてしまい、「したいこと」をしないのは、そのための強さを持っていないからだ。

 もちろん、ただ生き延びることだけでもたいへんなこともある。だけど、人はただ生きるために生きているわけではない。「人はパンのみに生きるにあらず」ということだ。キリスト教におけるこの言葉が意味するのは、「物質的な面だけでなく、霊的な部分を大切にせよ」というようなことだろう。しかし、現代において人が「霊的な部分」を大切にする、というとき、自分が何をしたいのかを意識することがまず重要なのではないかと思うのだ。

 自分はほんとうは何をしたいのか。それを考えるとき、文明化された生活から抜け出したいと考えることも十分ありえるだろうけど。

 

 人生で望むものは?

 人生で望むものは?
 金か 人々の尊敬か? 君の望みは何だ?
そいつを本気で考えてみろ

 

さよなら、僕のマンハッタン』という映画のなかで、アパートに越してきた謎めいた隣人が、若い主人公にそんなふうに尋ねる。

 

What do you want.In your life.
You want more money? You want more  respect?
What is it that you want.
Think it about it. Really think about it.
(原題:_The Only Living Boy in New York_)

 

人生で何を望むか。
今まで何度か目にしてきた問いかけだ。自分にも何度も問いかけてきた。
そして、ぼんやりといろいろと考えたり、仮の目標として設定し、それを口にしたりしたこともある。だけどどこかで、きれいごとな気がしてしまっていた。現実には俗な欲望に振り回されて生きている。

 

ちなみに、呪術廻戦の主人公である虎杖悠仁(いたどりゆうじ)は、爺ちゃんの遺言である「たくさんの人を助けろ」という言葉に従い、そしてそれによって「多くの人に看取られて死ぬ事」を目標にしている。そういう考え方もあるだろう。

 

しかし、カスタネダ著『ドンファンの教え』の中に登場する、アメリカインディアンの呪術師たちはそんなふうには考えない。

 

 道のゆくさきは問われない。死すべきわれわれ人間にとって、どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。道がうつくしい道であるかどうか、それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるか、それだけが問題なのだ。所有や権力、「目的」や「理想」といった、行動をおえたところにあるもの、道ゆきのかなたにあるものに、価値ある証しはあるのではない。今ある生が空疎であるとき、人はこのような「結果」のうちに、行動の「意味」を求めてその生の空虚を充たす。しかし道ゆきそのものが「何もかもあふれんばかりに充実して」(ドンファンの表現)いるかぎり、このような貧しい「結果」のために人は争うことをしない。〈心のある道〉をゆき〈美しい道をしずかに歩む〉人々にとって、蓄財や地位や名声のために道を貧しく急ぐことほどいとわしいことはないだろう。
                         (真木悠介『気流の鳴る音』より)

 

自分の生きているいっときいっときが、「何もかもあふれんばかりに充実して」いるという自信はもちろんない。でも、というか、だからこそ、何かの目的のために今を〈手段化〉してしまうことで、よけいに生を充実から遠ざけてしまうことは避けたい。
子供じゃないんだから、今、このときのためだけになんて生きられないけれども。
でも、子供みたいになることが、理想的な生き方ということになるのだろう。

 

映画を採点:『さよなら、僕のマンハッタン』★★★☆☆

(ひさしぶりに採点したから基準を忘れた。まあまあ面白かったということ)

 

 

チェーホフ『三人姉妹』

また鬱の雲に覆われがちである。

チェーホフの『三人姉妹』を読んでいる。
登場人物が語る人生の虚しさが生々しくて、読んでいてヒリヒリする。

悟りを開いたと思ったときもあったけど、まったくダメで、
脳というか、感情というか、思いというか、に、振り回されている。

クラシックを聴きながら『三人姉妹』を読んでいたら余計に滅入ってしまった。
鬱病の人にクラシックは毒だと思うのだけど、どうなんだろう。
夜はあまり鬱にならないと思っていたのだけど。
ジャズにしてみた。