たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』と仏教

昨日の日記にも書いたように、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』をとても楽しく読んだのだけど、その上で疑問に思ったことについて考えてみよう。

 

この本のなかで、退屈は、過去の記憶という傷をひりつかせるから苦痛なのだ、と言っている(おおざっぱな要約だけど)。

そのことについては、マインドフルネスなどの文脈でも、人を苦しめるのは、「今・ここ」にないもの、すなわち過去のつらい記憶とか、未来に対する不安とか、であると言われることと重なってくるだろう。

 

で、『暇と退屈の倫理学』を読んでいて、思っていたこととして、「この話、原始仏教の瞑想とか、マインドフルネスとかの方向にはいかないだろうか?」ということである。

 

『暇と退屈の倫理学』のなかで、ハイデガーを参照しつつ分類される退屈から逃れる方法として、「退屈から目をふさぎ、何かの奴隷」となることと「根本的な退屈を前提にして文化的な気晴らしをすること」があった。そして、この「文化的な気晴らし」においては、五感を働かせて物事を味わうことの重要性が語られていたように思う。しかし、この「五感を働かせること」はまさしく瞑想の重要なポイントである。そして、五感を研ぎ澄ませることで「今・ここ」に集中し、過去や未来の幻想に振り回される自己をメタ認知する、という点では、単なる文化的な気晴らし以上のものである、あるいは、文化的な気晴らしを十分に行うための訓練とも言えるのではないだろうか。

 

いずれにしても、『暇と退屈の倫理学』において、瞑想とかマインドフルネスとかの視点がないのは不自然な気がするので、それはなぜだろう? と疑問に思ったということである。

 

 

 

 

 

 

 

「どうしたら人生を充実させられるか問題」

これはすべての人にとっての重要テーマではないのだろうか?

教員の仕事の良いところは夏休みが長いところで、だから毎年、夏休みを充実させることに挑戦している。人生のミニチュア版としての夏休みなのである。

しかし、今まで、「完璧な夏休みだった! 充実していた!」と思ったことはおそらく、一度もない。

これではまずい。夏休みを充実させられない者が、どうして人生を充実させられようか。

 

ところで、今年の夏休みには、いくつかの個人的に取り組みたいテーマがあった。

 

1.自己の再構成:よく思い出せないのだけれど、自分の中身を再構成しようとしていた。もう一度思い出してみよう

 

2.引きこもり:少し前に読んだ『億り人の引きこもり生活』という本が興味深くて、今年は引きこもろうと思っていた。何年か前に魚釣りばかりしていたのとは大きく異なる。

 

2の引きこもりについて、説明したい。

この本の作者(内向型の頂点)は、ベンチャー企業で働くことでFIREを達成し、株式運用だけで毎日たらたらと過ごしている。ポイントは、多くの人は、こんなに引きこもっていたら、退屈でつらくなったり、人生の充実が得られなかったりすると思うのだが、この人はそうした野心とは無縁である点だ。ここには重要な何かがある、と僕は思った。

 

そうしたときに偶然目に止まったのが、以前から気になっていた『暇と退屈の倫理学』だった。ここでは、人々が退屈をおそれるあまり、消費社会におけるカモになってしまっていると言っている。たしかに、退屈な時間をおそれ、刺激を求めて金を使うという循環には思い当たるところがある

 

だから、そうした「消費」活動に振り回されるのではなく、具体的な体験そのものを味わうことが重要である、ということになる。特に興味深かったのは、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を参照しながらの退屈の分類だった。僕はいままで、何かに没頭することが「充実」だと思っていた(ハイデガーもそう言いたそうだ)。だけど、『暇と退屈の倫理学』において國分功一郎は、そうではなく文化的な気晴らしこそが、退屈と没頭の間にあって、もっとも人間的で価値ある生き方だと述べている(おそらく)。

 

以前、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』を観たときに、「ここには何か重要なものがある!」と感じたことを思い出す。人生において、「生きるために生きる」以上のこと。『暇と退屈の倫理学』の中では、次のように表現されている。

 

「人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。」

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学新潮文庫) (p.325). 新潮社. Kindle 版. 

 

芸術は大切だ。あるいは、食文化を始めとするさまざまな生活文化は重要だ。

本書の中でも言っているが、結論だけだとバカバカしい感じだが、大いに納得する。人生の充実に必要なのは、熱狂ではない。だって熱狂からは必ず冷めてしまう。熱狂だけを求めるなら、その人は麻薬中毒患者と同じようなものだ。だから、文化がある。芸術がある。そして、文化や芸術を味わうためには、勉強が必要だ。いいじゃないか。

 

だから、最近話題の千葉雅也著『センスの哲学』を読んでいる。なかなか悪くない読書の流れだと思う。もちろん、僕にとっての大切な文化である「文学」について浸る夏にもしたい。

 

ところで、今年の夏休みのもう一つのテーマであった「1.自己の再構成」については、どうなっているんだっけ? 7月には精神的な危機があったはずなのだけど、休みに入ったら、喉元過ぎれば熱さを忘れるという状態になって、ほんとうに分からなくなってしまった。でも、AI(8月はChatGPTではなくClaudeという生成AIを使っている)と相談しながら、これも考えてみよう。

 

スリランカ料理に感動する

先日、水戸に出張したとき、以前の同僚と会って、昼食をともにした。彼が教えてくれたのが、茨城大学近くの「コジコジ」というスリランカ料理の店だった。以前にも彼と同じ店に入ろうとして、客が並んでいて断念したことがある。彼は水戸に来るたびにそこで食べるばかりか、夕食用にテイクアウトもするらしい。

大きな丸い皿に、時計の数字のように並んだ様々な料理と、その中心に細長い米があって、それらを自由に混ぜながら食べる。スパイスを使った料理をカレーというなら、すべてカレーなのかもしれないが、いわゆるカレーとは違っている。

すべての料理が、違った味と違った食感で成り立っていて、料理を味わうことがそのまま芸術作品を味わうことであるような経験だった。つまり、自分の感覚を広げるような経験。こういう感動を料理から得るのは久しぶりのことで、しばらくは個人的なスリランカ料理ブームになりそうな気がする。

 

 

椎名林檎の曲「NIPPON」を中毒気味に聴いている

椎名林檎が登場した頃はすごくかっこいい文学的な感じの曲を作る人がでてきたなあ、すごい、と思って最初のあたりはCDも買っていたけど、

そのうちしばらく離れていて、しかも僕はサッカーへの関心がまったくないのでワールドカップ番組のテーマソングとしても聴くことがなく、

先日、たまたまラジオで流れてきた「NIIPPON」という曲がちょっと気になって、改めて検索して聴いてみたら、あまりにもかっこいいと思ってしまって、それ以来、麻薬中毒気味に繰り返し聴いている。

この感じは、しばらく前に10FEETの「蜃気楼」に同じ症状が出て以来のことだ。

 

あまりに聴きすぎて飽きてしまうのが怖いのだけど、中毒なので、聴かずにはいられない。

もちろん、歌詞もアレンジも椎名林檎のボーカルもかっこいいが、その曲が気に入るというのは、ほとんど肉体的なものだと思うので、結局は説明のしようがない。

いまさらなのだけど、椎名林檎自体への興味も出てきてしまっている。このタイミングでライブチケットが販売されたらなんとしても買ってしまうところだけど、ライブの予定はないようである。

といっても、椎名林檎には他にもいい曲がたくさんあるとはいえ、〈ど真ん中〉なのは「NIIPPON」だけなので、ライブに行く必要はない気もする。

このレベルでど真ん中に来る曲が、世界には、他にも存在して、ただ出会えていないだけなのだろうか? それとも、そのときの自分にとってのど真ん中は、世界に1曲しかないのだろうか?(そんなはずはない、とは言えない気がする)

「このレベルでど真ん中に来る曲」というのは、単に珠玉の名曲、ということではない。この僕という個人にとって(あるいは今の自分にとって)特別な曲ということで、それはどういうことなのだろう?

もちろん、Amazon Musicで「類似した楽曲を再生」してもど真ん中の曲は見つからない。

 

どういうことなのかはわからないけど、数多ある曲の中で、なぜこの曲にこれほどど真ん中感を感じてしまうのか、興味深い。

 

コーチャンフォーつくば店について、反省した。

以前、この日記にコーチャンフォーの悪口を書いた。開店初日とかそのくらいのときに行ってがっかりした件について。

でも、あれから何度か訪れて、意外といいじゃん、と思うようになっている。おそらく本が増えて本の並びが充実してきたからだろうと思うのだけど、あのときに書いた、本の目利きが重要なんじゃないか、というのは間違いかもしれないとも思う。

 

というのは、常総道の駅にできたtsutayaに比べたら、ずっと良い、と思うからだ(また悪口になってよくないのだけど)。

常総道の駅のtsutayaは(あるいは、柏の葉tsutayaも同じようなものかもしれない)、〈おしゃれ〉を目指して、逆に本好きの目から見ると本当にダサい。

こんな感じなのが好きなんでしょ? なんとなく知的な感じでしょ? という主張が、押し付けがましいというか、うるさい。客の知的レベルを舐めることでしか、ああいう本の選びかたはできない。あれで常総道の駅のtsutayaの本が売れないからといって、客の知的レベルのせいだと勘違いされては困るよな、と思う。

そう考えると、最初に出会ったころのヴィレッジヴァンガードの本の並びに感動したけど、今では感じるいやな感じも同じかも。売り手の趣味がいいと思ってる感じ、が、うるさい。もうちょっと謙虚になれないかね。

 

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(マーク・ボイル著 紀伊國屋書店)を読んだ


マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでいる。

 

イギリス人のマーク・ボイルという青年が、1年間、お金を使わずに生きると宣言して生きた記録。

「ぼくが思うに、売り買いと与え合いのちがいは、売春とセックスのちがいのようなもので、行為の背後にある精神が大きく異なる。相手の人生をもっと楽しくしてあげられるからというだけの理由で、代償なしに何かを与えるとき、きずなが生まれ、友情が育ち、ゆくゆくはしなやかな強さを持ったコミュニティーができあがる。ただ見返りを得るために何かをしても、そうしたきずなは生まれない。」(P628)

 

ここで示されているのは、資本主義によって失われたものだ。

 ほとんどの人は、生まれたときから「おまえに安心をもたらすものは(地域社会ではなく)何と言ってもお金だよ」と言われて育つ。

作家の橘玲は、「幸福の『資本』論――あなたの未来を決める『3つの資本』と『8つの人生パターン』」の中で、マイルドヤンキーの幸福を説明していた。たとえ収入が少なくても、たとえばみんなで一緒にコストコで買い物してみんなで食事をしたりすることで幸せを感じることができる。つまり、〈社会資本〉がその人の幸福を担保しているというわけだ。

僕には、そうしたコミュニティーを維持していくのは、とても精神的な負担に思える。だから、そういう人は〈金融資本〉に頼ろうとするし、現代においてはそれがメジャーな生き方なのだろうと思う。

でも一方で、この本を読んでいると、お金が世の中に導入されることで(あるいは、資本主義というマネーゲームが主流の世の中になることで)、価値基準が数字で測れるカネというものにシンプル化してしまい、ムダという豊穣が失われたということも実感する。たんなる楽しみのために働くという選択肢があまりない。この本の中でマーク・ボイルは、とても楽しそうに生きている。

「助けてあげた相手が助けてくれることはないかもしれないし、助けたことのない人から助けてもらうかもしれない。通常の貨幣制度とのちがいは、コンピュター画面上の数字で安心の度合いをはじきだすか、好意で何かをしてあげたときに生まれる人とのきずなに安心を見いだすか、である。一方では高い塀がはりめぐらされ、もう一方では強固なコミュニティーが築かれる。」(P629)

〈きずな〉かあ。僕には胡散臭い言葉に思えていたけど、そういう考え方の方が貧しいのだろうか。ともかく興味深く読んだ。

 

 

 

文明的生き方と野性的生き方

 雨ふる日曜日の午前中、カフェにきている。むさしの森珈琲

 最近、文明的生き方と野性的生き方のことをよく考える。文明化された環境のなかでぬくぬくと生きることが、生きることの手応えを失わせているのではないかというような意見は、まっとうに思われる。自然を感じたり、自分の命の危機を感じたりすることが、生を輝かせたという経験を自分もしたことがあるから。

 一方で、文明化された環境のなかで優雅に生きることの喜びも知っている。それを「いい気なものだ」と否定する必要はないのではないかとも考えているのだ。

 そういうときに思い出すのは、ウディ・アレン監督の『それでも恋するバルセロナ』という映画のことだ。映画の主旨とはちがうところでおもしろがってしまっているのかもしれないが、友達同士でバルセロナに旅した二人の女性が恋する画家が、享楽主義的で魅力的だった。

 享楽主義というのは、それほど簡単ではない。なによりも、自分がほんとうに求めているものを知らねばならない。世間や社会による拘束から自由でなければならない。

 ぼくたちが「やらなければならないこと」をしてしまい、「したいこと」をしないのは、そのための強さを持っていないからだ。

 もちろん、ただ生き延びることだけでもたいへんなこともある。だけど、人はただ生きるために生きているわけではない。「人はパンのみに生きるにあらず」ということだ。キリスト教におけるこの言葉が意味するのは、「物質的な面だけでなく、霊的な部分を大切にせよ」というようなことだろう。しかし、現代において人が「霊的な部分」を大切にする、というとき、自分が何をしたいのかを意識することがまず重要なのではないかと思うのだ。

 自分はほんとうは何をしたいのか。それを考えるとき、文明化された生活から抜け出したいと考えることも十分ありえるだろうけど。