たらたら神秘主義

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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(マーク・ボイル著 紀伊國屋書店)を読んだ


マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでいる。

 

イギリス人のマーク・ボイルという青年が、1年間、お金を使わずに生きると宣言して生きた記録。

「ぼくが思うに、売り買いと与え合いのちがいは、売春とセックスのちがいのようなもので、行為の背後にある精神が大きく異なる。相手の人生をもっと楽しくしてあげられるからというだけの理由で、代償なしに何かを与えるとき、きずなが生まれ、友情が育ち、ゆくゆくはしなやかな強さを持ったコミュニティーができあがる。ただ見返りを得るために何かをしても、そうしたきずなは生まれない。」(P628)

 

ここで示されているのは、資本主義によって失われたものだ。

 ほとんどの人は、生まれたときから「おまえに安心をもたらすものは(地域社会ではなく)何と言ってもお金だよ」と言われて育つ。

作家の橘玲は、「幸福の『資本』論――あなたの未来を決める『3つの資本』と『8つの人生パターン』」の中で、マイルドヤンキーの幸福を説明していた。たとえ収入が少なくても、たとえばみんなで一緒にコストコで買い物してみんなで食事をしたりすることで幸せを感じることができる。つまり、〈社会資本〉がその人の幸福を担保しているというわけだ。

僕には、そうしたコミュニティーを維持していくのは、とても精神的な負担に思える。だから、そういう人は〈金融資本〉に頼ろうとするし、現代においてはそれがメジャーな生き方なのだろうと思う。

でも一方で、この本を読んでいると、お金が世の中に導入されることで(あるいは、資本主義というマネーゲームが主流の世の中になることで)、価値基準が数字で測れるカネというものにシンプル化してしまい、ムダという豊穣が失われたということも実感する。たんなる楽しみのために働くという選択肢があまりない。この本の中でマーク・ボイルは、とても楽しそうに生きている。

「助けてあげた相手が助けてくれることはないかもしれないし、助けたことのない人から助けてもらうかもしれない。通常の貨幣制度とのちがいは、コンピュター画面上の数字で安心の度合いをはじきだすか、好意で何かをしてあげたときに生まれる人とのきずなに安心を見いだすか、である。一方では高い塀がはりめぐらされ、もう一方では強固なコミュニティーが築かれる。」(P629)

〈きずな〉かあ。僕には胡散臭い言葉に思えていたけど、そういう考え方の方が貧しいのだろうか。ともかく興味深く読んだ。