たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

においのある言葉というものがある。
あるいはにおいのある文章というものが。
それを解き明かすひとつの手がかりは「やまとことば」かもしれない。
日本語には出自の違ういくつかの言葉が含まれる。
中国から入ってきた言葉とか、英語から入ってきた言葉とか。
やまとことばはもっとも豊かなにおいをまとっている。ある意味でそれは当然だ。
だから世の中のあり方が急速に変化し、多くの新しい言葉が生活の場に入ってくるのに従って、
言葉の危機がやってきている。そんなことも言えるのかもしれない。


今は否定されている説らしいけど、
精神分裂病(今は統合失調症と呼ばれている)になる理由として、こんな話を聞いたことがある。
たとえば親が子供に対して、言葉で「愛している」といいながら、体罰を与えるなどして身体的に別のメッセージを送った場合、
その子にとっての言葉が二つに引き裂かれてしまうからだ、というもの。
この説の興味深いところは、言葉が、自分と世界をつなぐものとして、
それほどに大きいものだと教えてくれている(と思える)点だ。


ぼくたちがもし、言葉に対する親密さを失ったとすれば、
それは、世界に対する親密さを失ったということになるかもしれない。
世界には言葉があふれているけど、ぼくたちが世界に対する親密さを取り戻すことができる言葉は
どこにあるだろうか。


神話は、その時代の人々にとっての世界を示すものだ。
このわけのわからない世界に生まれ、わけもわからないままに生きる人々にとって、
神話として語られる物語は、世界に対する親密さを与えるものだったと思う。


においのある言葉についてのもう一つの手がかりは、
世界に対する親密さを取り戻してくれるかどうかと関係があるかもしれない。
物語というものと、言葉のにおいは、だから結びついている。
ぼくらは、世界に対する親密さを与えてくれる言葉を求めている。