たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

 豊かな人生を送りたい。それが一番重要な問題だということは分かっている。
 夏休みのたびにぼくは、「この夏休みを充実させられないなら、人生を充実させるなんて不可能だ」と考え、試行錯誤を繰り返してきた。「人生全体の象徴としての夏休み」。だけど今まで一度たりとも完璧に充実した夏休みを過ごしたことはない。
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 歌人穂村弘が、社会的なチューニングからずれているということが歌においては価値になる、という話をしていた。信号を見たときに、「この青信号は今日見た中で六番目に緑に近い」と思ったとする。青信号が意味するものは赤でもなく黄でもないということなのだから、その情報は何の役に立たないわけだけれど、歌においては価値になる。そういうたとえ話を使って。
 社会人として毎日、目の前のことを処理するために慌ただしく働いていると、それが赤なのか青なのか黄なのか、にしか反応しなくなる。ぼくにとっての世界は、単に処理するための対象となって、ぼくの脳はとてもまずしい状態になる。
 無駄に長い眠りをむさぼったあと見た夢の記憶を頭に残したまま夢の中にしか存在しない架空の家を訪れたときの雰囲気を何度も何度も反芻しながら一日を過ごす。そんなときぼくは、生きているなあと感じる。人生にとって必要なのはそういう時間だ。
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 ぼくが勝手に決めているすぐれた映画の定義がある。それは、「その中に流れている時間が、まるで自分にとってのすごく個人的で特別な記憶であるような感覚になる映画」、というものだ。
 たとえば、ぼくが好きな映画の一つに『ビフォア・サンライズ』という作品がある。アメリカ人の青年が、ヨーロッパを旅行中にフランス人の女の子と出会い、翌朝に飛行機が発つまでの一晩を語り明かす、という恋愛映画だ。なぜ、この映画が「個人的で特別な記憶」のように感じるのか。
 この映画の魅力はまず、二人の会話の内容にある。二人の会話は、何かを目的としていない。当然、映画のストーリーを進めるための会話にもなっていない(まあ、当然、二人が距離を縮めるため、という目的はあるのだけれど)。たとえば、死についての話、人生についての話、男と女についての話、など。一言で言えば青臭い会話、ということになるのだけれど、社会化していないことが「青臭い」ということの意味であるなら、青臭い会話こそが人生を充実させるに違いない。
 ひとつ重要なのが、観ているぼく自身がジュリー・デルピー演じる女の子に恋をしている気分になる点だ。そしてそれは、「肉体性」という問題を抜きにしては語れない。映画は時間の芸術だという言い方があるけれど、そこには、観客の立場としての時間とは別に、俳優の肉体に流れるかけがえのない時間を封じ込めたもの、という意味合いがあると思う。ある人物が、ある年齢の、ある瞬間にしか見せることのできない表情やしぐさ。その肉体性には、人生のかけがえのなさが象徴されている。ある映画に価値があるとしたら、その映画の放つ輝きが、人生のかけがえのなさが持つ輝きに通じているときだと思う。『ビフォア・サンライズ』においては、設定上も、翌朝に別れるまでの一時的な出会いであることが二人が過ごす時間のかけがえのなさを強調している。だけど、もちろん、本当にかけがえがないのは、人生そのものである。
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 山頭火という人の俳句が持つ魅力が、以前から不思議だった。通常の俳句であれば解析可能であるはずの要素が何も含まれていないように見えて、ぽんと差し出されたその言葉が、ときに無性に胸に染み入ることがある。この短い句を解析することができれば、何か言葉の秘密を知ることができるのではないかと思ってきた。

  しとどに濡れてこれは道しるべの石

  生死の中の雪ふりしきる

  投げだしてまだ陽のある脚

  しぐるるや死なないでゐる

  また見ることもない山が遠ざかる

  雨ふるふるさとははだしで歩く

  いそいでもどるかなかなかなかな

  この道しかない春の雪ふる
                     (山頭火『草木塔』より)
 山頭火の俳句の特徴はなんだろう。ひとつはもちろん自由律であること。もうひとつは、主人公がいつも山頭火自身である点ではないだろうか。
 短歌の特徴が、どう読んでもそこに表現されるのが「私」であるのに対して、俳句には、「私」が欠如しているという説明を聞いたことがある。だけど、山頭火の句を読むと、どれもこれも、社会からドロップアウトした山頭火という人物が放浪の旅をしている姿が浮かび上がってくる。山頭火自身、随筆の中で、「すぐれた俳句は――そのなかの僅かばかりをのぞいて――その作者の境涯を知らないでは十分に味はへないと思ふ」と書いているように、山頭火の句の魅力を理解するには、その人生が不可欠だ。
 たとえば、
   投げだしてまだ陽のある脚
という句のどこに魅力があるのだろうと考えると、その背後に山頭火のかけがえのない人生の時を想像するからではないだろうか。「まだ陽のある脚」という言葉に表されているのは、今にも暮れようとしている日の光に象徴される刹那の時間のかけがえのなさ、そしてそれを見ている山頭火の人生の時のかけがえのなさだと思う。
 あるいは、
  しとどに濡れてこれは道しるべの石
という句や
  この道しかない春の雪ふる
に使われている「これ」「この」という言葉の異様さ。言葉というものが、すべてを抽象化=普遍化するものであるのに対して、山頭火が示そうとしたのはあくまでも、その瞬間、その場所に目の前にある「石」のかけがえのなさ、「道」のかけがえのなさだ。
 山頭火はその名の通り、出家をした坊さんである。ぼくは禅宗のことを何も分からないけれど、彼が宗教的な向上心を持っていたことは、その芸術とかかわりがないはずがない。彼が目指した高みとは何だろうか。以下、山頭火の随筆からの言葉を引用する。
「一切は流転する。流転するから永遠である、ともいへる。流れるものは流れるがゆえに常に新らしい。生々死々、去々来々、そのなかから、或はそのなかへ、仏が示現したまふのである。」(「独慎」)
「所詮、句を磨くことは人を磨くことであり、人のかゞやきは句のかゞやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない。」(「道」)
「死は誘惑する。生の仮面は脱ぎ捨てたくなるし、また脱ぎ捨てなければならないが、本当に生き抜くことのむずかしさよ。私は走り出て、そこらの芒の穂に触れる。」(「白い花」
  「――私はいつ死んでもよい。いつ死んでも悔いない心がまへを持ちつづけてゐる。――残念なことにそれに対する用意が整うてゐないけれど。」(「述懐」)
 乱暴に言ってしまうなら、ぼくが充実した夏休みに挑戦しつづけるのも、「本当に生き抜くこと」を求めているからだ。そして彼の句に表現されている「本当に生き抜くこと」をぼくなりに解釈すれば、「人生の時を目的達成のための手段にしてしまわないこと。今という時のかけがえのなさを味わうこと」なのではないかと思う。
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 夏目漱石から始まって、ぼくの好きな作家はみんな、作品の背後に作者の人生を感じさせる。作品は、すでに作者から離れてそれ自体として独立している、という言い方はもっともらしいけれど、ぼくにとっての言語作品の魅力を語ってはいない。かけがえのない人生を送る作者のかけがえのない「今」と深くつながりながら、作品は魅力を放つ。そして、豊かな人生のありようを教えてくれる。