たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

 
「知らない町を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」という歌の作詞は永六輔のようで、永六輔もなんだかわざとらしくて好きではないけれど、この歌をテーマにした旅番組(今もやっているのか知らない)も、旅人して出演する昔売れた俳優みたいな人の生活感にげんなりしてしまい、好きではなかった気がする。
でもNHKのBSでやっている「世界ふれあい街歩き」はまったくほんとにこの歌の歌詞に表された理想を描いてくれる感じで、いつも感心する。
「知らない町」「どこか遠く」に感動してしまうのは、おそらく、自分の人生がこの一つだけに限定されてしまっているからだ。
だからこそ、ありえたかもしれない別の人生、どこかこことは関わりのない遠い町で生きているかもしれない別の自分、という感じのロマンを投影してしまうのだろう。
ぼくは最近ほとんどテレビ番組をみてなくて、予約録画している番組はいくつかあるけど、たとえば、ドキュメンタリー番組のテーマに関心がなければ消してしまう。だからその中でもっともよく見ているのが「世界ふれあい街歩き」かもしれないくらいだ。
さっきみたのはカナダのバンクーバーを映した回で、その生活の質の高さみたいなものに感動してしまった。
もちろん、「編集」後の映像を見せられているということは分かっていて、むしろ、編集でカットされた「醜い」あるいは「気まずい」部分を想像してしまったりもするのだけど、まあ、すべての表現は「編集」後なわけだから、それはそれでいいのである。


昔からぼくが心惹かれるものとして、「夕暮れ、見知らぬ町を車で通り抜けるとき、二階の窓からのぞける部屋の壁。その中に暮らす人物を想像すること」というのがある。
世界ふれあい街歩き」にも、それに通じる興趣を感じる。でも、その夕暮れの見知らぬ部屋の住人は、「ぼくがまだ巡り合っていないけれども、実は運命的に相性のいい理想の女性」という設定なので、ちょっと異なる。
とにかく、その根底にあるのは、一回きりのこの人生、というものの切なさ、みたいなものだ。
あるいは、いつまでも手が届かない、今ここにないものとしての「理想」かもしれない。


だけど昔に比べて、今、ここにあるこの人生を幸福と受け入れることがずいぶんとできるようになった気がする。
そして、そう考えることができるようになってから、初めて人生が始まった気がする。