たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

今日、生徒と話していて、その女子生徒がいい女の例として挙げた女子が、「いかにもいい女」としての外観を装っている女だったので、がっかりした。
そういうことはよくある。
第一に、そういう女は、うまくごまかしているだけで、たいていそんなに美人でもない。
第二に、そういう女は(よく知っているわけでもないのに言い切るけど)、話してもまったく面白みのない人物である。


女子生徒が何にも分かっていないだけで、男子は実際にはそんなに見た目だけに振り回されていはいない、ということだったらいいのだけれど、男子に聞いても同じように、いかにも中身のなさそうな女を例に出したりするのでうんざりする。
しかもけっこうおもしろいやつだと思っていた生徒がそんなことを言ったりすると、高校生ってばかだなと思う。


もちろん、生徒がいい女として挙げていた人物を「見た目だけ」と判断したのはぼくの勝手で、その人なりに一生懸命生きているのに、「見た目だけ」なんて判断するぼくの方が視野の狭い愚かな人間なのかもしれないし、
あるいは変人の女性が好きというぼくの好みに合わないだけ、つまりは価値観の違いにすぎないのかもしれない。
と書きつつ、いや実際にはそんなことはないと思っている。
中身のない女はちょっと見ればだいたい分かるし、世間にゆらゆらと浮かんでいるだけで意外性のかけらもない人物は、たとえきれいだとしても「見た目だけ」だ。それにどんな生き方でも一生懸命生きていればそれでいい、ということでもないだろう。


「きれいだ」という理由で男に選ばれた場合、その女の人は、たとえば年をとってきれいでなくなったら当然、その男にとって価値のないものになってしまう、というようなことを内田樹が言っていた。
それでも肉体的な美が男によって重要視されるは事実なのだから仕方がない、ともいえるけれど、だからこそ、そんなものに振り回されてはならないのではないだろうか。
実際、肉体的な美しさなんかどうでもいい、という雰囲気をたたえている女性でなければ、ぼくは美しいと思えない。


精神性なんていううさんくさいものに価値を置かず、肉体的な美しさという確かなもののために生きる方が美しい、という考え方も成り立つとは思う。
そして、そういう人物の方が、肉体に、金に、地位に価値を置いて、たくましくこの世を渡っていくのだろう。
でも僕はその種の土俗的生き方に美しさを感じることができない。
この世界に生まれて与えられた動物的・社会的条件にぴったり納まって、何の違和感もなく生きる人たちに魅力を感じることができない。
「どんな人だって、まったく違和感を感じていないわけではない、一生懸命合わせようとしているのだ」というなら、そんなふうに媚びる姿勢が気に入らない。
自分の違和感の方を大切にすればいいではないか。
社会に合わせることだってできるけど、合わせてやらない、と思って生きていきたい。


というわけで、その生徒には、いかにも教師のお説教的に、「見た目ばかりにうつつを抜かしていると、本当に大切なものを見失ってしまうよ」などと言いたかったのだけれど、実際には、見た目にうつつを抜かしている女子生徒たちは、その動物的な本能によって、やがては金に、やがては地位に、うつつを抜かし、たいていは僕なんかよりも現実的な成功を収めることだろう。
だからお説教をするのなら、現世的な幸せを求めるな、精神的なものに幸せの価値を置け、ということになるのだけれど、そうしたらまるで宗教のようだし、そんなことは本当に大きなお世話、だろうとは思う。