わざわざ主張することではないだろうけど、忌野清志郎が死んでもぼくの人生はほとんど影響を受けない。
角田光代が新聞で、忌野清志郎が死んで「どうしよう」と途方に暮れている、というような文章を書いているのを読んで、ほんとかあ?と思い、すぐに反省したり、死の翌日にラジオの女が、音楽評論家みたいな男を相手にしきりにその死を悔やんでいたけれど、それほどファンだったわけではないのはばればれじゃん、と思ったり、素直になれない。もちろん、そんなことは分かっていても死は悔やんで見せるのが、大人の対処なのかもしれないけれど。
忌野清志郎が死んだ週の金曜日、職場を出て車を走らせながら珍しくラジオをつけると、NHK-FMで渋谷陽一がその人物と曲について解説しながら曲を紹介していて、思わず聞き入ってしまった。アナウンサーの男を露骨に軽蔑していて嫌なやつだと思ったけど、解説はすごくおもしろかった。RCサクセションの魅力について、初めて理解できた気がする。音楽評論家というのは、きちんとした存在価値があるのだなあ、と感心した。
魅力が分かった、と言ったけど、なんか嫌な感じもする。そして魅力と嫌な感じは、同じコインの表と裏みたいなものだ。
たとえば、「ヒッピーに捧ぐ」の歌詞。ヒッピーというあだ名のマネージャーが死んだときに作った曲らしい。
お別れは突然やってきて すぐに済んでしまった
いつものような なにげない朝は
知らん顔してぼくを起こした
電車は動きだした 豚どもを乗せて
ぼくを乗せて
この、「豚どもを乗せて」という表現には思わず感動してしまう。大衆を「豚ども」と表現してしまうなんて。
それから、その後のほう、
空を引き裂いて 君がやって来て
ぼくらを救ってくれると言った
という部分で急に宗教的な感じの壮大なスケールに飛躍する部分とか。
人々を「豚ども」と呼ぶアウトサイダー意識は、忌野清志郎に一貫しているらしくて、
ラフィータフィーというバンドでの「誰も知らない」という曲では、
(ラジオで聞いた記憶のままなので歌詞は間違っていると思うけど)
ぼくの歌を誰も知らない
でもそれはいいことなのかもしれない
ぼくの歌はパワーがありすぎるから
ぼくが歌うところを誰も見ていない
テレビがうたう歌にしか興味がない
でもそれはいいことなのかもしれない
みんな今までどおりが好きだから
みたいな内容をうたっている。
でも、「ぼくの歌を誰もしらない」とか言いながら表現する、ということの子供っぽさは、どうなんだろう。
忌野清志郎じたいが嫌ということではないのかもしれない。
忌野清志郎の選民意識みたいなものは、どうしても世間とはズレてしまう劣等感みたいなものからくる切実なものな気もするし、おそらく本当に純粋な人なんだろうなあと思うから許せるのだけど、
忌野清志郎ファンみたいな人たちが、その選民意識の中に入り込み、媚びるようにする感じが嫌なんだと思う。
こういうパターンって、よくある。村上春樹は好きだけど、村上春樹ファンは嫌いだ、とか。
サリンジャーは好きだけど、とか。
忌野清志郎を含めたそういう作家たちって、選民意識によって読者に仲間意識を生み出すことを意図的に行っているんじゃないかとも思う。
「ぼくって、世間とは相容れないんだよね。(君もだろ?)」という感じ。括弧内は言わないけど、作品として表現しているってことは、そういうことだよなあ、と思う。