震災をきっかけについて、いろいろ、考えたような考えないような、でも脳が考えようとする感じ、だけはある。
まとまらないままに何とか書こうとすれば、そのひとつは、危機において人間の本性が現れるとするなら、ぼくはその検証に耐えられるほどの「正しさ」を持っていないということだ。
震災において、自分を後回しにして、周囲の人々のために尽くす人についての記事をインターネットで読んだりすると、自分もそうした人間にならねば、というプレッシャーを感じる。
でも、そう考える一方で、世の中を覆い尽くす、「きずな」とか、「助け合い」とかいう「正しさ」の蔓延のなかで、そこに入りきれない違和感というか、疎外感も感じる。
もちろん、自分の利益だけをがっちり追求する利己的人間が好ましいとはぼくも思わない。けれども、世の中に蔓延する「正しさ」は、なんなのだろう。ついていけない。みんな、もっと情けなくたって、適当だっていいじゃないかと思う。
おそらく、危機において連帯感が強まるというのは、生き残るうえでの戦略なのだろう。その雰囲気に自然にのることのできない僕みたいな個体が、人を助けることも助けられることもないなかで、死んで行くのかもしれない。でも、震災の悲惨さのことはともかくとして、なんだか嫌な感じだ。
たとえばそんなことを考えた。