たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

去年まで住んでいたのは「過去の町」という感じのさびしさが漂う町だったけれど、祭りの日にはどこにこれほどの人が隠れていたんだろうと驚くほどの賑わいを見せた。
今度の町も同じく発展というよりは明らかに過去の栄光の名残りのうえに成り立っているような町で、だけど8月の祭りに向けて静かな、しかし本気の昂ぶりを見せつつある。
休日に散歩をしていると、この前出来上がったばかりの山車が納められている倉庫の周りに人々が集まっていて、倉庫の中をのぞくとヤンキーや元ヤンキーなんかが、山車のしめ縄を替えたりして手入れをしている。


今夜は祭りに向けて練習が始まったらしく、開け放した窓から笛や太鼓の音が流れ込んできた。
ぼくは子供のころから祭りにきちんと参加したこともなかったし、また、参加してもどうせ溶け込めるわけがないと思い込んでいたということもあって、昔から祭りに対して「すっぱいブドウ」的な感情を抱いていた。つまり祭りなんか嫌いだ、と。本当はあこがれているくせに。


引っ越す前の町で、最後の年の夏、初めて祭りを見た。夕方、雨が降り出しそうな田んぼ道を歩いて祭り囃子の聞こえる町の中心に向けて歩いていくと、普段は閑散としている商店街が見物人でごった返していた。人を掻き分けてやっと山車が見えるところにたどり着く。ふんどし姿の男たちがはしゃぎながら大きな山車をひき、山車をひけない大人たちは酔っ払って風呂敷の四隅をひっぱり合い(意味が分からないけど楽しそうだった)、さらしを巻いたヤンキー女子や子供たちが輪になって踊っていた。途中から激しい雨が降り出して、ぼくは商店街のアーケードの下に逃げ込んだ。祭りは異様な盛り上がりを見せ、雷までなり始めた嵐の中、踊り狂うヤンキー女子たちの姿があまりにも感動的だった。
土俗的ということは、崇高ということだ、と思う。ごちゃごちゃといろいろ考えることで我を忘れて踊ることのできない人間こそが、もっとも崇高から遠い存在なのではないだろうか、などと、本気で思っているわけではないけれど、思ってしまいそうなくらいすてきな祭りだった。三島由紀夫がおっさんになった後で神輿を担ぎ、忘我を演じみせるその気持ちがよーく分かる。