たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

ここに何か書くたびにひきこもり欲のことを書いているけど、秋から冬にかけての今頃のひきこもり欲は本物、という感じがする。昨日、今日と、惰眠をむさぼりながら、このまま社会に復帰しなくてもよかったらどんなにいいか、と思っていた。


たとえば働き方の選択肢として、半年間は正規の給料の3分の2をもらって働き、残りの半年は3分の1をもらって「冬眠休暇」というものがあったらいい。そしたら10月から3月まで休むのに。きっと暖かい季節に休みたい人もいるだろうから、4月から9月に休む場合は「バカンス休暇」とする。


同僚から、『ツイッター 140文字が世界を変える』 (コグレマサト、いしたにまさき著、マイコミ新書)を借りて読んだ。面白かった。グーグルについての何冊かの本もそうだったし、 佐々木俊尚仕事するのにオフィスはいらない』 (光文社新書)もそうだったけど、「コンピュータ(インターネット)が生き方や働き方や社会のあり方を変える」的な本は、単純に面白い。現実に変わるかどうかは知らないし、ぼくがツイッターをやるかどうかもわからないのだけど、大胆に世の中が変わるというのをイメージするだけでも面白い。


そういう意味で、東浩紀が「朝まで生テレビ」の中で、「SNS直接民主制」というのを提案して、「ネットがあれば政治家いらない」と言ったとかいうのも、すごく面白い。そう言えば『動物化するポストモダン』でそんなことを書いていたような気もするけど、よく覚えてはいなくて、読んだ当時よりも今の方がリアルな感じがするくらい時代のあり方が進んだのだと思う。本気で考えて、良いという結論が出れば、前例とかを気にせずにどんどん大胆に変えていけばいいのに。でも、世の中には前提主義的な思考しかしない人たちの方が多いはずだから、そう簡単にはいかないのだろうと思う。


ところで「ツイッター」の何が面白かったのかと言うと、さまざまな人が刻一刻つむぎだす「つぶやき」をどんどん受け取っていって、それに返信までできるというのが、まるで「テレパシストの交信のよう」だからだ。携帯のメールを初めてやったときもテレパシーのようだ、と思ったけど、中学生のときに読んでいたSF小説(『幻魔大戦』?)では、見知らぬテレパシストから送られてきた「念」を主人公がキャッチするというような場面がかっこよくて、「ツイッター」の面白さというのはおそらくそんなものだろうと勝手に想像した。


だけど、一方で、そんなふうに他人の思考をキャッチしまくっていったら、「自分」というものが薄れていってしまうのではないかなどと、単純かもしれないけど考えた。もしかしたらぼくみたいにいわゆる「個性」というものを大事にするような考え方自体が「古い」のかもしれなくて、実際そのような意味での世代間ギャップを感じる経験もしたことがある。それでも思考の独自性というものを失ったらつまらないと思うし、独自性を作り出すものは「情報の独自性」であって、そういう意味ではぼくは「ツイッター」どころか、すべての「現代的」情報を遮断して、「ガラパゴス諸島」に変な生き物が発生するように頭の中で変なものを生み出したい、と考えたりもする。