たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

実家で蜂に刺された

昨日の午後は、休みを取った。
実家近くのお寺に檀家料を支払いに行った。広徳寺、13000円。
ついでに自宅の手入れをしようと、チェンソーで垣根とか、垣根の辺りの蔦を切るとかした。チェンソーのチェーンが締められなくなったので、刈払機に変えて自宅の植え込みを覆っている蔦を払っていると、蜂がおそってきた。逃げたが、背中を刺される。
検索で出てきた下妻の加倉井皮膚科クリニックへ。軟膏・注射、アレロックと軟膏の処方。
松辰で醤油ラーメン、細麺で。ふつー。
マキタ土浦営業所でチェンソーのチェーンを締めるノブが動かないことについて相談したところ、中に草などが溜まってしまっていることが原因と言われる。
自宅に帰り着いたら、自宅前で高校生カップルがいちゃついているのに気を取られて、カーポートの柱に車のバンパーをぶつけた。カップルが驚いてこっちを見ていて恥ずかしかった。

そもそも辛い気持ちだったのに、まさに「泣き面に(刺されたのは背中だけど)蜂」的な日だった。

#読書
井上ひさし『芝居の面白さ、教えます』を読む。
チェーホフが、当時の人気戯曲家スクリーブから影響を受けていた。
そのスクリーブは、「それまでの芝居のいいところを徹底的に勉強した人です。たとえば芝居には幽霊を出すと成功する。芝居には必ず宝探しが出てくる。」

 

サニーデイ・サービス

つくばロックフェスというイベントに先月行ってきた。

祭りに参加して神輿を担いた三島由紀夫のひそみに倣って。

はじめてのフェスにおっさん一人で参加するのは心細かったのだが、たいへん楽しめた。

一番の目当ては崎山蒼志という若いミュージシャンで、それに間に合うように二時すぎに会場に到着。崎山蒼志は期待にたがわず良かったし、二番目の目当てだったスチャダラパーも懐かしの曲で楽しませてくれたりした。だが期待以上だったのがサニーデイ・サービスだった。

予習としてAmazon Musicで曲を聴いていて、丁寧な職人タイプのバンドだなと思っていたのだが、実際の演奏はそこからは想像もできなかった。肉体性によって曲というのはこれほどに生き生きするのかというくらい楽しくて、おっさん一人で参加していることも吹き飛ぶくらいだった。

 

文学作品の言葉がおもしろいかどうかは

すでに固定してしまった考え方や知識を表明するおじさんの言葉はつまらないという話の続き。

 

固定していないということは、他者(他の人だけでなく、広くとらえれば世界ということ)ときちんと関わっているということだ。

 

固定してしまうものを「概念」というわけで、人は「概念」にとらわれて苦しむ。

ある人が嫌いというのも、「概念」。こうあるべき、というのも「概念」。

 

概念は動かない。変化しない。

しかし、世界は日々変化する。自分の体も、変化する。世界に開かれた、体も、頭も、変化する。その変化する中で生まれるものが、おもしろいのであって、「概念」はつまらない。

 

文章を読んでいても、すでに概念となっているものの表出は、死体の提出でしかなく、まったく魅力を感じない。文章を書きながら、そこで思いがけず生まれてしまうもの、書き手を裏切りながら運動する言葉というものがおもしろい。

 

ただし、それがあまりにも肉体に即しすぎると、それはそれで緊張感がないようでつまらないのだよな。その感じがなんなのか、よく分からない。緊張感というのが、何と何の間の緊張感なのかがよく分からない。

 

 

おじさんの話がつまらないのはなぜかということ

今日、自由の森学園という私立中学・高校の公開教育研究会というのに行ってきた。

たいへん面白かったのだけど、そのなかで教えられたこと。

 

公開教育研究会の「テーマ別分科会」も「教科別分科会」も、中学生や高校生と大人たち(先生も保護者も大学生も一般の人も)が一緒になって話し合うのがすごいのだが、そこでおじさんが話し出すと、だめなことが多い。おばさんの場合には、けっこういい場合が多いのに。

中学生や高校生の場合は、たいてい面白い。

 

自分もおじさんだから常々気をつけなければと思っているので、この場合のおじさんの駄目さはなんだろうと考えていた。そしたら、「教科別分科会」の中で齋藤知也という方(元自由の森学園の教師で今は山梨大学にいるという)の話で気づかされたのだけど。

 

つまり、だめなおじさんの話というのは、誰か他の人の話を聞いて何かをインスパイアされることなく(つまり自分が何かの変化させられることなく)、もとから自分が持っていた考え方や知識を披露してしまうからだめなのだと思う。

 

その人(そのおじさん)と話しても、けっきょく自分の発言によってその人の考え方は一ミリも変化しないんだろうな、と思ってしまう。そしたら、もう話す意味がない。最初から徒労感に襲われる。

そう思わせる話し方をするおじさんというのはとても多い。

 

つくば市に新しくできた大型書店「コーチャンフォー」への期待と落胆

おととい開店したコーチャンフォーに当日の夕方に行ってきた。

エスカレーターを登って歩き出し、ちょっとの間だけテンション上がったが、棚を見ていくと、なんだかげんなりしてくる。

 

もちろん、本屋が次々失われていくさっこんなので、あらたに本屋ができるというだけでありがたいことなんだけど、でも、ぜんぜんだめ。せっかく巨額を投入して本屋を作っただろうに、もったいなすぎる。意味がわからない。

 

でかいという割に、本が絶対的に少ないというのが一つだけど、それは根本的な問題ではない。それよりも、本の並びに、まったく意思が感じられないという、つまりよくある国道沿いのレンタルDVDといっしょに本が売っているタイプの本屋のでかい版でしかないというが致命的なんだろうと思う。

 

もっと小さくても、良い本を選んで並べていますよ、という本屋は食欲をそそるのだけど、コーチャンフォーにはまったくそそられない。

 

最近行ってないけど、まだヴィレッジヴァンガードの方がマシかも。(あれはあれで選書のあざとさが浅はかですぐに飽きてしまったけど。それに店舗ごとの個性がないような気がしたし。あまり真面目に比べてないから分からないけど、なんとなく。)

 

だいたい本屋というのは、清濁いずれにしても知を売っている場所なわけで、その並びに「知」が感じられなかったらまずいでしょ。おとなりのコストコだって、商品に対する目利きによって価値が生まれているんだから、もう少しちゃんと本を選べよ、と思う。ほんと、適当に並べた本がとにかく詰め込まれているというのは、一瞬でわかるし、うんざりする。

北海道の文化水準が疑われるから、早くなんとかしたほうがいい。

 

逆に、本の目利きによる鑑識眼によって並べられた棚も、一瞬でわかる。当たり前か。

昔つくばにあった(正確には今もあるけど)友朋堂書店はよかったな。小さくても、本屋の矜持を感じた。

 

 

 

 

 

 

 

悟りとダイエット

ダイエットが順調である。

 

きっかけは、ネットで16時間プチ断食というものを知ったことだ。

たとえば、夜8時に夕食を食べた場合、朝食を抜けば、昼12時には16時間断食をしたことになる。

 

健康診断のたびに肝臓に関する数値が悪化していて、痩せればいいのだろうけど痩せられないし、まずは肝臓を休めることが重要な気がしたので、実験をしてみた。するとダイエット開始直後の5月には76kgくらいあった体重が、本日は71.6kgである。

 

この経験を通して、ダイエットの本質を理解した。

 

「空腹と友だちになる」

 

今まで、空腹は身体にとっての危機である気がしていた。少なくとも、かなり不快な状態であった。だから少しでも空腹を感じると、何かを口にすることが習慣になっていた。

 

しかし、空腹と友だちになってみると、意外と悪いやつではないという気がしてくる。けっこういさぎよくて、いいやつかも、と思えてくるのだ。

 

ただし、空腹と友だちになるにはコツがあって、「血糖値を急激に上げない」ということが重要である。血糖値を上げないためには炭水化物を含め、糖質を避けるということである。基本、「主食」と言われる「米」「パン」「麺類」などは炭水化物なので、急激に血糖値を上げてしまう。

 

炭水化物を避けてみると、食後に眠くなったり、少ししたらまた耐えられない空腹がやってきたりすることがなくなった。

 

この方法には、断食というくせに腹が減ったときにナッツ類はOKというずるいルールもあって、けっこう平気でナッツを食べているのだが、順調に痩せている。しかも炭水化物さえある程度避ければ、腹八分目で我慢するというようなことをしなくても大丈夫。

 

この食生活の中にはほとんど我慢というものがないので、一生続けられると思う。だからリバウンドもない。おそらく。

 

で、食欲イコール外部からの刺激と考えると、

悟りも同様に、外部からの刺激中毒からの脱却することが目的だから、

ダイエットの本質と悟りは似ているな、と思った。

 

 

 

 

俳句と悟り

1ヶ月くらい前から、2日に一度、俳句を作っている。いい句を作ろうとするためというより自然を感じるためである。

悟りを開いてからしばらくして、もとにもどってしまったという感じがした。もとにもどったといっても、もとにもどったと思えるということは完全にはもとにもどってはいないということで、その後も精進を続けている。

悟りを開くことと自然を感じることはけっこう関連が深いと思っていて、俳句というのはそういう意味で悟りと親和性が高いのではないだろうか。季語というのも、うざいようなものだけれども、自然とのつながりをいちいち意識する装置としては納得できる。

逆に悟りともっとも親和性が低いのが小説で(下世話がおもしろさだから)、では詩はどうなんだろう?

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