たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

おじさんの話がつまらないのはなぜかということ

今日、自由の森学園という私立中学・高校の公開教育研究会というのに行ってきた。

たいへん面白かったのだけど、そのなかで教えられたこと。

 

公開教育研究会の「テーマ別分科会」も「教科別分科会」も、中学生や高校生と大人たち(先生も保護者も大学生も一般の人も)が一緒になって話し合うのがすごいのだが、そこでおじさんが話し出すと、だめなことが多い。おばさんの場合には、けっこういい場合が多いのに。

中学生や高校生の場合は、たいてい面白い。

 

自分もおじさんだから常々気をつけなければと思っているので、この場合のおじさんの駄目さはなんだろうと考えていた。そしたら、「教科別分科会」の中で齋藤知也という方(元自由の森学園の教師で今は山梨大学にいるという)の話で気づかされたのだけど。

 

つまり、だめなおじさんの話というのは、誰か他の人の話を聞いて何かをインスパイアされることなく(つまり自分が何かの変化させられることなく)、もとから自分が持っていた考え方や知識を披露してしまうからだめなのだと思う。

 

その人(そのおじさん)と話しても、けっきょく自分の発言によってその人の考え方は一ミリも変化しないんだろうな、と思ってしまう。そしたら、もう話す意味がない。最初から徒労感に襲われる。

そう思わせる話し方をするおじさんというのはとても多い。