たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

悟った3

大学生のころ、「人生」という言葉を頭に浮かべるだけで、鬱になれた。

それからずっと、いつも焦っていたような気がする。いつも、「こんなことしている場合じゃない」と思って生きてきた。

「人生」などというのは、あたりまえだけど、自分の頭のなかで勝手に作ったフィクションでしかなくて、でも、「人生」を充実させなくてはいけないと思ってきた。

 

人生を充実させるためには、刺激が必要だと考えたり、向上することが人生の目的だと考えたり。とにかく、人生というフィクション病にかかっていた。

 

だけど、刺激を求めれば、必然的に刺激のない時間が苦痛になる。向上していない自分に苛立ちがつのる。

 

逆に、今、このときに生きるということだけが事実だ。それ以外の「人生」も「自分」というストーリーも、フィクションに過ぎない。

 

不完全なままでもいいと思えるということだろう。自分も、この状況も。

まえよりもそう思えるようになった。そのことと、今、この瞬間がかんぺきと思えるということがイコールだ。

人と関わると、その相手が物語を背負っているから、それに引きずられる感じがあるけど、飲み会でトイレに行って小便器に向かっているときみたいに、時々「今、このとき」に安らぐことを意識していこう。

 

 

 

 

 

 

悟った 2

悟りを開いたけど、けっこう維持するのがたいへんである。

最初に開いたときは勢いがあって、すべてが変化した感触があったけど、ずっと羽ばたいていないと墜落してしまうような感じ。もっと、ちゃんと開けたら安定するのだろうか。

 

だけど、いちど悟った状態がわかると、悟っていない状態を意識することはできる。

頭のなかがちらかっている感じ。そして、「今」に生きておらず、思考というフィクションのなかに生きている感じ。「無意識」の状態と言ってもいい。思考に没入してしまって、自分が思考にとらわれていることを意識できていない。

 

悟っていない状態は、自分の思考と感情に入り込んでいる。3D映像を見せる乗り物にのっているようなもので、ブンブン振り回されて頭が混乱している。

いちど悟ったとしても、いつのまにかその乗り物に乗っているから気をつけないといけない。

 

悟りというのは、自分の思考や感情から開放されることである。

そのためには、自分のものと思っていた思考や感情が、どんなふうに生まれてくるかを知ることが大切だ。

何も考えていない状態を作って、そこに最初の思考が生まれる瞬間を観察すると、けっして自分の意志でないことがわかる。

自分の思考や感情というのは、自分のものではない。空に雲が生まれたり、窓の外を鳥が横切るのと同じようなものだ。でも、その乗り物に乗ってしまうと、だんだん膨らんでいって、自分を拘束するものになってしまう。

 

過去の嫌なこと、未来に待っている嫌なこと、そんな思考にとらわれて、感情を振り回されてしまう。

 

悟ることは、その乗り物から降りるだけだ。

次の2つのことを同時に行う。

 

1.自分の感情を見つめている別の視点を作る。

 

2.自分の思考や感情から一歩観察するのと同時に、自分の体の内側や、外側を感じる。

 

 思考や感情は、ほんとうは自然現象と同じようなものなのに、それが自分だと思いこんでしまっている。そのストーリー=フィクションにとられないためには、他の自然現象(自分の体も自然現象の一つである)と同じ距離で観察すればいい。

 

そうすると、3つめの感触が必然的に生まれる。

 

3.「いま」という時を感じる。

 

焦りや不安、落ち込みなどは、フィクションとしての「エゴ」がもたらすものだから、必然的に「いま」にゆったりと落ち着いて向き合うことができる。

 

ほんとうだったら、4つめとして、次のフィクションを信じられるといいのかもしれない。フィクションとしか思えてないところが、僕の浅い部分かもしれないのだけど。

 

4.ほんとうの自分は、この肉体でもこの思考でもなく、「大いなるもの」、つまり「すべて」、つまり「神」であると感じる。

 

これができたほうが安定するのかもしれないけど、「うさんくさい」と感じてしまう。

もう少し、このことについて考えてみよう。

 

 

 

 

 

悟った

悟りを開いた。

おそらく先月(2022年2月)、いままで分からなかったことが分かった。

ずっと悟りに興味を持っていて、初期仏教に関する本を読んだりしていたのだけど、分からなかった。たとえば、座禅とか瞑想とかをなぜするのかもピンとこなかった。

それが、分かった。分かると、悟りというのはそれほどすごいことではないことも分かった。

 

これから何回かに分けて、悟りを開いた経緯や、悟りを開くというのがどういうことなのかについて書いてみようと思う。

 

まず、悟ったことで、どのようなことが起こったのか。

(ただし、悟ってみて分かったけど、悟りというのは、いったんそうなればもう後戻りしないというものではない。今の感じとしては、飛び方は覚えたけど、いつも羽ばたいていないと気づけば地面を歩いていた、みたいな感じ。)

 

1.いままでいつも抱えていた「こんなことをしている場合じゃない」という焦りがなくなった。

 これが大きい。なぜかというと、人生の価値が一変したから。

 僕は以前から、人生を夏休みにたとえて、どうしたら充実した夏休みを過ごせるか、と考えていた。しかし、実際の夏休みはスルスルと過ぎていき、途方に暮れながら日々を見送るばかりで、焦っても時間を止めることはできなくて、無力感を感じるばかりだった。それが、分かったのである。悟ることで、すべてが変わった。いつも充実しているようになった(ある意味)。

 

2.人間関係によって感情を振り回されることがなくなった(?)。

 実際には、いまでも振り回されることはある。だけど、それ以前とはまったく違う。心の奥に、確かなものがある。波立っても、すぐに収まって、平穏な心の状態になっている。

 

3.緊張することがなくなった。

 これは悟りを開いてすぐに気づいた変化で、それ以前はたとえば司会をするという仕事のときに妙に緊張していたのが、ほとんど緊張しなくなった。

 

4.常に機嫌よくいられるようになった。

 それまで、体調や天気や人間関係やいろいろなものによって、基本的に不機嫌だったのが、上機嫌がベースになった。

 

5.「休日の夕方ブルー」がなくなった。

 これは、「1」から必然的に出てくる効果なのだけど。いままでは休日の夕方になると、明日から仕事かあ、という感じになって、憂鬱になっていたのが、なくなった。

 

6.人との会話がしやすくなった。

 なんとなく、軽快になった。エゴを前提として話さなくなるので、必然的に気をつかわなくて済むようになったのだと思う。このへんはもう少しちゃんと考えてみたいけど。

 

以上、とりあえずの報告。

 

 

 

めずらしく神秘についてまじめに

ブログに神秘主義というタイトルをつけたくせに神秘についてほとんど書いてない。

神秘というほど、かっこいい生き方をしてないから、たらたらをつけたわけではあるけど。

 

いつも人生の本質というか、世界の本質みたいなものに関心があった。

ほとんどのことはどうでもいい。あるいはすべての物事の向こうには大事なものがある、みたいな。

 

じぶんの、かっこ悪い生き方と、神秘みたいなものとに折り合いをつけることはできるのだろうか。聖者みたいには生きられないし、生きる資格がない。

 

もちろん、神秘なんてものは幻想にすぎないかもしれないわけで、だから僕は宗教というものを信じてはいなのだけど、それでも、その何かをみないで生きたら、生きている意味がないだろうとも思っている。宗教を馬鹿にしてはいない。宗教という形でしか、本質についての思考に触れることはできないのかもしれないとも思っている。

 

しばらくそういうことを考えることから遠ざかっていた。またぶり返したのは寒くなったからかもしれない。

寒さに生命の危機を感じた肉体が、いのちについて考えたくなっているのかもしれない。

 

先日同僚が突然病気で死んだ。今朝は次々と自殺する若者たちという夢を見て目覚めた。そのあと車で実家に向かう途中で実家の近所の方から僕の一歳下の幼なじみが死んだという電話があった。

 

暑い夏がまたやってきて、何も考えずに釣りをしたい。

生命があふれて、あふれて、魚が釣れすぎて困りたい。

 

バス釣りを考える。

バス釣りにハマって1年以上が経った。

ずっと書物とか精神世界みたいなものに関心があったのに急にアウトドアであるわけなのだけど、自分の中ではつながっているので、

そのあたりを考えてみたい。

 

昔から自然と向き合うことの重要性は感じていた。

わずかな登山経験のなかだけど、谷川岳に登って、人間の「域」を外れた場所に入ったときに得られた特別な感じ。

おおざっぱにいえば神聖さというやつだろうと思うけど、人間がちっぽけで、ふだん振り回されているいろんなことはすべてどうでもいいことに違いないという感じ。

 

結局もとめていることは「人生の本質」みたいなもので、それはイコール「世界の本質」でなければならないものであって、だいたい「本質」というのが何のことなのかもよく分かってないまま求めているわけなのだけど、生きていると、あー、このあたりにあるなーと思うことがあるわけなのである。

 

それはたとえば優れた芸術作品に触れたとき、たとえば美術作品だったり、音楽だったり、文学だったり、あるいは哲学(個人的に哲学も本質は芸術だと思っている)だったりする。

 

そして、自然に触れることで感知する「何か」も「このあたり重要だな」と思うことの一つなのである。自然なんていくらでも周りにあるはずで、でもただ見るだけだとちょっともどかしくて、

 

すなわち、ブラックバスを釣り上げることは、自然の魂を釣り上げることなのだ。

 

ネット時代のバス釣り

ブラックバス釣りにハマっている。

つくばの野池とか小貝川とか霞ヶ浦とか、休日のたびに巡っている。

 

あまり釣れない。坊主(一匹も釣れないこと)に終わることのほうが多い。下手くそなので。

 

20年くらい前にもバス釣りをしていたことがあるのだけど、最近再び始めてみると、インターネットの普及によって大きくその意味を変化させている。

 

たとえばゴルフを趣味とする人が、ゴルフトーナメントを見るという楽しみを同時に得たりするように、他人の釣りを見るのもけっこう楽しい。ネットの時代においては、バスプロの釣りだけでなく、素人(広告収入を目的としているのかもしれないので素人でもないのかもしれない)が自らの釣りを動画としてユーチューブにアップしていて、楽しい。

 

また、道具を買うことの楽しみは、趣味の重要な要素だと思うのだけど、バス釣りでは、ルアー(疑似餌)をしょっちゅう根掛かりして無くしてしまうので、その楽しみに事欠かない。その場合、ネットで何を買うかを検討するのはもちろん、たとえばワーム(ミミズとかの形をしたソフトルアー)の使い方を検索すると、メーカーのサイトで動画つきで説明してくれて便利だ。

 

あるいは、「どこで釣るかを探すのも、釣りのひとつ」という考え方があるが、ネット上の情報をもとに、釣り場をねちねちと探す楽しみは、たしかにすでに釣りをしているのと同様だ。グーグルマップの「航空写真」モードで水面を探したり、「ストリートビュー」で3次元で確認したりしてバーチャルフィッシングを行う。

 

おそらく、釣りに限らず、さまざまな趣味が、ネットの時代においてその広がりと複雑さを増していることだろう。

 

 

 

映画『ミッドナイト・イン・パリ』

風邪気味だったこともあるけど、

それ以前から、ただ生きているだけで大変、という気持ちでいて、

そういうふうだから、ここしばらく、人間にとって「理想」みたいなものがあるという、

理屈はわかるけど、気持ち、というか雰囲気を忘れていた。

 

今日は金曜日なのでいつものように実家に帰り、

腰が痛むという母と夕食を取り、

入浴後にウディ・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』を観た。

 

で、久しぶりにそういう気持ちを思い出した。

浮世離れした映画ということになるのだろうけれど、

重要なのはそこではなくて、人間にとって、「浮世=現実」以外の何か、があるということを示している。

そしてそれを示すことは、本当の強さだと思う。

 

それでも恋するバルセロナ』を観た時にも、感銘を受けたポイントとして

ウディ・アレンの開き直り、みたいなものがあって、

それは例えば、政治とか経済とかもっと重要な問題が、とか、今も飢えに苦しむ人がいるのに、とか、

とにかくウディ・アレンの映画を「いい気なもんだ」と批判する見方は当然あると思うのだけど、

そんなことは当然承知のうえで、「人はパンのみに生くるにあらず」と、言っている。

ぼくも日々そのことを肝に銘じて生きていきたいと、本当に切実に思う。

「いい気なもの」でいたい。

 

映画を採点:『ミッドナイト・イン・パリ』……★★★★☆