たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

以前知り合いにもらった現代詩の朗読CDをときどき聞く。『やさしい現代詩』という本に付いてたCDで、谷川俊太郎に始まり、いろいろな詩人が自作を朗読しているのだけど、それを聞きながら、いろんなことを考える。

1.「いい女」の声というものがある。
  たとえば小池昌代の声は、あきらかに「いい女」の声で、声というのは、あきらかに肉体の表現であって、つまり、たとえば「メスとしてすぐれているかどうか」みたいなものを露骨に表わすものである。

2.いい声とわるい声が、はっきりとある。
  声のよしあしが、人格の奥深さに通じている気がしてしまう。たとえば、稲川方人の声なんて、低音が酸いも甘いもかみわけた大人の奥深さみたいなものを表現しているなあ、と感じる。それに対して、ある男性詩人の声なんて、生理的にとても聞く気がせず、必ずその人の部分をスキップしてしまう。そして、声を聞いただけなのに、「なんて浅はかなやつ!」などと思う。

3.おそらく素晴らしいと評価されているのだろう「巫女的」な朗読は、鼻につく。
  男性詩人にも女性詩人にもあるのだけど、「巫女的」というか「シャーマン」的というか、なんだか大げさな朗読がいくつかあって、そういうのは、わざとらしくてうんざりする。さっきも挙げた稲川方人の朗読のように、ふつうに朗読している中で、おのずからにじみ出る深みがいいのである。

「文は人なり」という言葉があるけど、「声はもっと人なり」である。