たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

同僚から、伊藤博文がドイツにいったときの話を聞いた。ドイツ人から、法律についておまえに教える前にまずおまえの国の歴史を教えろと言われて、伊藤博文ははた、と気付いた。我々日本人は、共有できる歴史というものを持っていない、と。という話。興味深い。


歴史とは物語だ。そして、個人においてもアイデンティティ確立のために自分を語る物語が必要であるように、国家が成り立つためにも、歴史という物語が必要である。


その同僚はこんなことも言っていた。第二次世界大戦で死んでいった人たちに対して俺らは「あなた方の死は犬死にだった」というべきではないか。しかし、それを言うと、激昂する人もいる、という話。
ぼくからするとどっちでもいいようなことだけど、おそらくその激昂する人が犯している間違いは、先祖供養の気持ちが、先祖がやったことはすべて賞賛しなければ、という気持ちにすり替わってしまう点だろう。自分たちを生んでくれた、あるいは自分たちの時代につなげてくれたことに感謝するのはよいとしても、先祖の行動をすべて肯定する必要はない。


だからと言って、あの戦争が間違いだった、とか、そういうことが言いたいわけではない、間違いだったかどうかしらないけど、どっちにしても「英霊」をたたえるのは、「自分の」先祖だからだろう?ということだ。


国にとって歴史とは、個人にとってのアイデンティティと同じようなものだ。
おっさんなんかでも、自分をぜったいに正当化せずには気が済まない人がいて、こういう人とは話ができない、と思うのだけど、
靖国問題なんかで英霊を賞賛する人というのは、つまりは「自分の」国の歴史を正当化せずにはいられない、という意味で、そういうおっさんに通じる。
エゴによって発言する人の言葉は聞くに値しない。「自分の」ものを正当化することの醜さをもっとすべての人が認識するべきだ。そうすればこの世はずっと風通しがよくなる。
自分がこの自分であるのは、たまたま、にすぎないのに、なぜその自分にそんなにこだわらなければならないのか? それ以上の価値が見いだせないということが、その人の価値が低いことの証明である、と思うのだけど、どうだろう。