たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

「愛」という言葉のうさんくささと、でも一方でやっぱり重要かもしれないと思ってしまうのはなぜか、について考えてみる。


まず、前提となるのは、このわけのわからない「人生ゲーム」の上でゴチャゴチャとなんだかんだと動き回って、
けっきょくこの「人生ゲーム」がいったい何なのか、わからないままこの世を去っていく、ということだ。


「愛」という言葉で言おうとしていることは、この世界に対する執着だろう。
愛と憎しみ、アンビバレントな感情、とかはよくあることだから、憎しみも似たようなものかもしれない。


愛する対象は、だから、この世、だ。具体的には「モノ」の場合もあるし、「ヒト」の場合もある。
でも、人間はやっぱり人との関係が重要だから、とりあえず「愛」は人間に対する愛を意味することが多いのだろう。


で、この「人生ゲーム」は、最初に書いたように、基本的に意味なんてないわけで、
たとえば、ドラクエなんかを夢中でやっていて、ある日、突然どーでもよくなってしまったりすることがあるけど、
この「人生ゲーム」だって、同じように、ある日突然どうでもよくなることは十分あり得る。
今まで鮮やかな色彩に染められていた世界からすべての色が急になくなってしまったような感じで。


「愛」というのは、その「どーでもいい」という本質がばれてしまうのを防ぐ、唯一のとっかかり、ということだろうと思う。
だから、愛は重要。
でも、「基本的にこの世に意味なんかない」という真実を前提にしないで発せられる「愛」という言葉はうさんくさい、
ということだろうか。