たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

今日はひきこもり欲がつのっている気がして、ずっと夢うつつの状態で過ごした。

『サバイバル登山家』という本を読んでいるのだけど、タイトルと表紙(岩魚の皮を歯で引きちぎっているのがカメラ目線で写されている。目が尋常ではない)がバカっぽいのに対して、文章は意外にも丹精で、知的な含羞のようなものを感じる。
この人は、「生命体としてなまなましくいきたい」から、最小限の装備で山に入り、岩魚を釣ったり、山菜を採ったりしながら食いつないでいく。なるべく間に「道具」を介在させないで、直接自然と関わりたいのだ。


この、「生命体としてなまなましくいきたい」という表現がすばらしい。だれもが(少なくともぼくは)持っている欲望を、こんなふうに直接的に表現してしまう、そのあたりに、この人の生き方が表れている気がする。


人間もみんな本当は、「生命体としてなまなましくいきたい」と思っている(きっと)。酒を飲むのも、ドラッグをするのも、クラブで踊るのも、セックスをするのも、祭りで神輿を担ぐのも、「生命体としてなまなましくいきたい」からだ(例外もあるだろうけど)。道具だとか理性だとか同じことが繰り返す日常だとか、人間が狩猟生活を捨てて文明を作り出してからどんどん幅をきかせるようになったものたちを脱ぎ捨てたいのだと思う。だから、根本にあるのは、原始の人間に帰りたいということで、それをこんなに意識的にやっている人がいることに感動した。


ちなみに、河合雅雄の『森に還ろう――自然が子供を強くする』とう本があるらしくって、読んでないけど、タイトルだけ見ても、それはそうだろうなあと思う。


連想を飛躍させるようだけど、人間にとっての自然と言うのは、外界にばかりでなく、心の中にもあって、それが無意識と言うやつじゃないかと思う。理性というか社会性というか、そういうものにしばられている心に、無意識の中の荒々しい自然を取り戻す必要がある! というわけで、今日はだらだらと眠っていたのであった。