たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

貴重な休日。11時から3時くらいまで眠ってしまった。
起きるとすでに光が夕方じみていて、悲しくなった。
だけど、ときどき意識を浮上させながら怠惰に眠りつづけているときの背徳的なまでの心地よさは、他には代えがたい。
その時間が純粋にその時間だけで完結している気持ちよさ。それが「官能的」ということでないか、とか考えてしまうのだけど、どうだろう。

こうした弛緩しきった休日を過ごすたびに、「人間の心を取り戻した」と感じる。
つまりふだんは人間の心を失っているわけで、それは、世界(人間を含めた)のすばらしさを感じるレセプターが、忙しさのあまりふさがってしまっているということだ。

例えば、生徒の小論文を読んでいても(自宅持ち帰りの仕事として)、レセプターがふさがっていると、文章のおかしさだとか字の間違いだとか、そんなところにしか目が行かなくなってしまう。でも人間の心を取り戻してから読むと、すごくおもしろいのだ。
世界がすばらしいかどうかは身体(脳を含む)次第。
というより、「身体」は一番みじかな「世界」なのだから、当然だ。
そして、身体を通してしか世界を認識することはできない。


ブローティガンの『西瓜糖の日々』を読んでいる。
むかし『愛のゆくえ』を読もうとしたときは、なんだか嘘くさく感じてしまったのだけど、いま『西瓜糖の日々』を読むと、かなり心に響く。
小説というよりも、論理的な飛躍の多い感じのあの文体は、詩に近いのかもしれない。
説明によって土台から組み立てていくのが、どちらかというと小説の文章だとすれば、
言葉によって、直接的に心に訴えかけるのが詩のことばである。という感じ。
自分の心の奥を覗のぞくような読書体験、という意味では、かなりいい小説なのではないか。

ブローティガンを読んでいると、高橋源一郎を思い出す。
高橋源一郎がアメリカで翻訳されたときに「ブローティガンみたいだ」と書かれたというのは、そりゃそうだと思った。
もちろんかなり影響を受けているのだろう。
でも、詩的という意味では高橋源一郎ブローティガンに及ばない。
勝手な基準で優劣を測られても迷惑だろうけど。
高橋源一郎は好きだし、『ゴーストバスターズ』以降あまり読んでないけど、少なくとも途中までは、次はどんな作品を書いてくれるのかとワクワクさせる作家だった。
でも、どこか頭でっかちな感じで、もちろん頭のいい人だから、そのへんの自分の限界もよく分かっているだろうけど、頭というか、理性というか、つまりは無意識以外の部分が考えられることって、大したことはないと思う。
ブローティガンの小説は、感じとしては、おろらく、無意識にかなりをゆだねている気がして、きっとそこが魅力なのだ。