たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

昨日はひさしぶりに「ひきこもり寝」をした。
「ひきこもり寝」はただ眠るのとは違う。肉体が求めるのではなく、精神が求める睡眠、という感じ。
つまりは昼寝なんだけど、すべての昼寝が「ひきこもり寝」というわけではない。
ときどきこれをやらないと、自分が薄っぺらな人間になってしまう気がする。
畑を耕すような感じで、無意識を掘り返すようなものだろうか。
よく分からないけど、ひきこもり寝をした後は、自分にとって本当に必要なことを行った、という気分になる。


ぼくにとって、小説を読むのも、どこかで自分の無意識を掘り返すような行為だ。
小説によっては、自分の頭の表面をかすっただけで通り過ぎてしまうが、小説によっては、心の深いところに響いてくる感じがする。
パヴェーゼの小説は、なぜか、ちょっと読むだけでも、すごい力でその世界に心を引きずり込まれてしまう。
そして文章が心の深いところに響いてくる。
でも、この小説のどこがそんな力を持っているのか、よく分からなくて、文章から夏の匂いとかその場の雰囲気とか、とにかくその世界全体が匂いたってくる、という感じなのだ。
たとえば、「美しい夏」の冒頭。


「あのころはいつもお祭りだった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、何もかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、あるいはいっそのこといきなり夜が明けて人びとがみな通りに出てくればよいのに、そしてそのまま歩きに歩きつづけて牧場まで、丘の向こうにまで、行ければよいのに。」


どこが魅力なんだろう。あるいは、こんな文章。


「外では、屋根の上に、まだ少し陽射しが残っていた。ジーニアは窓の近くに腰をおろして、視線を空からあのふたりへと移した。すると奥のほうに、ざくろ色の大きなカーテンが見えた。彼女は思った、誰にも知られずにあの陰にかくれて部屋のなかにひとりでいると思いこんでいる人をのぞき見できたら、さぞすばらしいだろう、と。ちょうどそのとき、グィードが言った、『寒いね。紅茶はまだあるかい?』」(「美しい夏」)


もちろん日本語訳で読んでいるわけだし、この文章だって、そんなに特徴のある文章というわけではないけど、誰かのすごく個人的な時間が、頭の中に流入してくるような感じがする。
不思議な小説家だ。


集英社「世界の文学 14 パヴェーゼ