たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

詩人のアーサー・ビナードの講演を聞いた。
なかで、詩人とコピーライターを対比していた。
どちらも言葉を操るのだが、コピーライターが不要な物を買わせるために言葉を使うのに対して、詩人は、何かに気づかせるために言葉を使う。そんなようなこと。


アーサー・ビナードがいう不要な物、とは特に原子力発電のことで、
経済的な原理によって国民をペテンにかけながら原発が推し進められてきた、というアーサー・ビナードの話を聞きながら、
コピーライター側には立ちたくないな、と当然ながら思うのだが、でも、金がほしいのは僕もコピーライター的で、
金がなければ新しいシャツも、新しいiPadも買えない。
金がほしいとか、名声がほしいとか、つまりはエゴによって目がくらんだ者には曇りなき詩人の眼は得られないのならば、
詩人とはすなわち生き方のことであると、
宮沢賢治とか、
あるいは宮沢賢治ほどではなくても、クーラーもシャンプーも使わないというアーサー・ビナードを思い浮かべて納得する。


「みんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(『銀河鉄道の夜』)