たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

賞味期限というものを信用しないのには理由があって、
自分の味覚が世間一般のひとと同じだとはとうてい思えないからだ。


賞味期限とは別に消費期限というのもあって、これは、「この日付をすぎると、腹をこわすかもよ」という意味だろう。
その場合も、自分の体に免疫をつけるために食べよう、とも思うけど、本当は少しびびっている。


それに対して賞味期限のばあいは、むしろ、それを過ぎたほうが「自分にとっては」おいしいのではないか、などとも思ってしまう。
趣味の悪い喩えだけど、たとえば「この女の賞味期限はすぎている」などと言われても、誰にとっての「賞味期限?」と思うのが普通だろう。なのに、食べ物については、堂々と「おいしく食べられる期限」が決められているのはへんだ。おおきなお世話である。


そういえばずいぶん前、スペインのマドリッドに旅行したとき、「ボティン」というレストランに入った。そこは、ヘミングウェイの『日はまた昇る』(個人的ベスト10に入る小説)で、「ここは世界で一番いいレストランのひとつだ。」と書かれている店なのだが、店内に妙な匂いが立ち込めていて不思議に思った。店から出たあとで、あれは熟成した肉の匂い、言い換えれば、肉が腐っていくときの匂いだと気づいた。


スペインはハムも有名で、そこでも肉の旨味を引き出すために、熟成が重要視される。また、日本の魚においても、たとえば本来の江戸前ずしはネタを熟成させる、つまりなかば腐らせることで旨味をひきだすらしい。


ボティンの牛肉にしても、本格江戸前ずしのマグロにしても、それを美味と感じる文化が脳内に発達していなければ、「腐ってる」と思って終わりだろう。だから、かりに賞味期限切れの食品を口に入れて「まずい」と思ったとしても、「まてよ。これをうまいと思うことでもう一段上の味覚文化に達するのではないか」と考えてみるべきではないだろうか。