たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

  世界とたたかうぼくの物語


堤くんが死んだ。
正月に帰省したぼくに母が伝えた。


 これはあくまで
 世界とたたかうぼくの物語である。
 こっけいに しかし真摯にたたかう
 ぼくについての。


堤くんはいつもひとりだった。
小学生のぼくたちは
堤くんちの屋根のうえに石を投げ
さびたトタン屋根には
いつかたくさんの石ころが積み重なった。


 世界はぼくの敵だった。
 心とは、ほんとうの心とは
 ここにあるこれのことだけだと
 そう思わずにはいられない。


堤くんは国立大学を中退すると
イラン人の友だちとともに姿を消した。
それ以外に友だちはいなかったと
実家の母が教えてくれた。
同性の友だちというには深すぎる関係を
ぼくは勝手に想像する。


 ぼくには、愛が与えられた。
 世界を愛する入り口として。
 ぼくははじめて世界を理解した。
 世界と溶けあうことの恍惚を。


五年後
ふらりと実家に現れた堤くんは
いつもうっすらと笑みを浮かべるだけで
父母ともほとんど言葉を交わさずに
しばらく部屋に閉じこもっていた。


 この心以外に心があるという
 幻想はしかし
 にがい快楽のための詭弁にすぎないと
 ほんとうは分かっていたのに。


工場に勤めはじめた堤くんは実家から
二十キロの距離を自転車で通った。
車の行き来の激しいほそい国道を
いまにも倒れそうなようすでゆっくりと
走っていたと、母による目撃談。


 ぼくのなかには恐ろしいものがいる。
 抑制することよりもむしろ
 解き放つことを夢想する。
 ぼくにとって世界は敵であり、
 しかも甘美な誘惑である。


残された堤くんの部屋には
むずかしい本がたくさん
積み重なっていたという。
ノートには細かすぎる字でびっしりと
日記がつけられていたという。


 世界はぼくの敵だった
 ぼくが誰かにとっての世界
 であるはずがない。
 心はこのひとつのはずだった。
 ほんとうの心が他にもあるはずが
 なかった。


小学生のぼくが堤くんに近づいて、
何も言うことはできないけれど
通学路をとぼとぼと
ただ隣りを歩くことで
ぼくもまた世界とたたかっているのだと、
言い訳のように伝えることを
何度も何度も想像する。


 これは、世界とたたかう
 ぼくの物語である。
 こっけいに しかし真摯にたたかう
 ぼくについての。


葬儀の日は雨が降っていて
堤くんちの庭はひどくぬかるんでいた。
ぼくは靴底についた泥をティッシュでぬぐい
それを垣根のなかに突っ込むと
傘をたたんで車にのりこんだ。