たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

先日、叔母の葬式で、久しぶりに宗ちゃんに会った。宗ちゃんはおそらく60代、スキンヘッドのおじさんで、親戚のみんなが「宗ちゃん」と呼ぶからここでもそう呼ぶけれど、実際ぼくがどう呼びかければいいのかは分からないでいる。


宗ちゃんは変人である。最初にその面白さに気づいたのは、大学生のときだ。ぼくの父の葬式にやってきて、もう一人の変人のおじさんといっしょに、ずけずけと坊さんや親戚の人たちをからかっていた。おごそかな儀式もすべての権威もどうでもいいものと考えているような彼らの言動に、とても自由なものを感じてうらやましく思った。


宗ちゃんは、今は引退したけど自動車整備工を仕事にしていた。そして南方熊楠を尊敬する博識の読書家でもある。先日の叔母の葬式では、今は古文書を読むことに夢中だという話をしていた。


宗ちゃんが読んでいる古文書とは、あるお寺の坊さんが代々つけている日記らしくて、そこには筑波山の北にある雨引という地域に起こった出来事が何百年にもわたって書かれているという。たとえば、あるときに生まれた人物が、しばらく読んでいると事件を起こしたり、この人物はあいつの子供かあと途中で気づいたり…。話を聞いているとたしかに面白そうで、その世界の広がり方は、当たり前だけど小説なんかよりもずっと複雑かつリアルであるだろうと思う。


古文書を読むには、文字と言葉についてのかなりの勉強が必要だ。「おれは、『夜だから寝る』というような段階は超越しているから、好きな時に寝て一晩中だって起きて勉強してるんだ」と言っていた。古文書は学芸員の人や大学の先生なんかと一緒に読み進めているらしいのだが、一生懸命勉強していって「大学の先生なのにこんなのも分からないのか?」とからかっているのだという。


話を聞いていた人が、「何のためにそんなものを読んでいるのだ」と聞くと宗ちゃんは、「世間の人はすぐに『何のためか』と聞くが、おおきなお世話だ」と答えていた。


生を輝かせるのは、「何のためか」を超越するような行為であると思う。