たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘

映画『ダークナイト』

あまりに評判がいいので、『ダークナイト』を観た。


エンターテインメントとしては、すごいレベルの高さだとは思う。監督のクリストファー・ノーランというのは、ずいぶん能力のある人だなあと思ったら、『メメント』の監督だった。
でも、あきらかに『メメント』の方が、いい。記憶を保持できない男が主人公の『メメント』という映画では、観ている自分の世界までがぐらりと揺らぐ感覚があったけど、『ダークナイト』は、いくらすごい出来であっても、しょせんは、単なるチューインガムだ。毒にも薬にもならない。ぼくの世界を1ミリも動かさない。


バットマンの苦悩を通して、何が正義で何が悪か分からなくなってしまった9.11以降の世界を象徴している、という映画なんだろうけど、ばかばかしい。イソップ童話は許すけど、露骨な象徴として何かが描かれるような、寓話としての映画が、ぼくは好きではない。何が正義か? そんなことは、どうでもいい。なにが正義か、なんて言葉の定義の問題に過ぎない。アメリカ映画にしょっちゅうヒロイズムが描かれるのには、もちろん効用もあるだろうけど、根本的なところで愚かしいニュアンスが漂う。バットマンの、ヒロイズムについての悩み方がすでに単純すぎると思う。


「悪」も「正義」も「エゴ」と結びついていて、そのエゴから逃れられないことが問題なのではないだろうか。たとえば、ヒーローは、人にちやほやされるため、または自分がヒーローになることの陶酔感にひたるため、というエゴによる行為である。あるいは、「愛」というのも、もちろん「エゴ」の発露だ。「汝の敵を愛せ」は? それは宗教。「すべての人に対する愛」すなわち「博愛」は? それはヒロイズム。もし、エゴや宗教によるものでない「愛」や「正義」があるならば、それは「狂気」であると言っていい。実際、すべての人の幸福を願った宮澤賢治には、単なる宗教を超えて、エゴにもとづかない個人の信念が感じられて、つまりは狂気としての迫力がある。


名声なんかどうでもよくて、人々からうとまれても、ただ人々を救うため「ダークナイト」(暗黒の騎士)をやっているバットマンというのは、「正義の狂人」ということになるのだろう。だけど、「正義の狂人」と「悪の狂人(ジョーカー)」の対決、という映画であるなら、「9.11以降の世界」なんて社会派ムードはやめて、もっと異様な映画にしてほしい。ここに描かれるバットマンは、狂人の迫力がないし、ジョーカーは、狂人として描かれているけど、あくまで狂人でしかなくて、偉大な悪、としての迫力はない。つまり、すべてがばかばかしい。


というわけで、観ていて突然すべてがどうでもよくなる感覚に何度も襲われた。一番の問題は、出てくるどいつもこいつも単純な人間ばかりだという点かもしれない。コミックが原作だからしかたがない、なんていうのは、いいわけにはならないと思う。


ただし、ジョーカー役のヒース・レジャーという俳優の演技は、魅力的だ。躍動感ある動きに、いちいち感動してしまう。この映画に出演した後、死んでしまったらしい。死因は、「数種類の処方せん薬を同時に摂取したことによる薬物過剰摂取」だとか。あまりに生き生きとした悪役の演技は、死ぬ間際だからこそありえたものなのだろうか、とか考えたくなってしまう。


ダークナイト』……★★★☆☆☆



《観た映画を6段階の★で評価》

 

 ★☆☆☆☆☆……駄作

 ★★☆☆☆☆……ふつー

 ★★★☆☆☆……おもしろかった

 ★★★★☆☆……すごくおもしろかった

 ★★★★★☆……傑作

 ★★★★★★……傑作! 自分にとって特別な作品