たらたら神秘主義

本と映画と音楽と日常、できれば神秘


昨日の晩、読みかけのままで本棚に置いてあった大江健三郎の『静かな生活』が目に付いて、手に取ってぱらぱらめくっていたら、字面が妙に魅力的なので、しばらく読んでみた。
「字面が魅力的」というのは、長年の読書経験から培われた勘のようなもので、実際、あらためて読んでみると、大江健三郎の文章はかなりかなり心地よくすばらしい。
それは、絵にたとえるならば、印象派の絵を楽しむときに、何が描かれているかとは別に、その筆づかいが気持ちよくてたまらない、というようなものだ。
例えば、ほんとにどの箇所でもいいので、たまたま目に入ったページから引用すると、


  「昨日の私の話には、自分自身失望した。なにもいわないよりもっとよくなかったと思う。それで寝室に引揚げてからも眠りにつけないままいろいろ考えているうちに、一方では神経が疲れているのでもあり、寂しくガランドウの場所に、ひとりで立っているという恐ろしい夢がはじまりそうになった。」


こうして文章を打ち込んでいても、気持ちがいい。ノーベル文学賞がうさん臭くても、大江健三郎という人物がうさんくさくても、この文章の気持ちよさは本物だよなあと思う。
才能のある画家かどうかを見極める重要なポイントは筆づかいだとぼくは思っているのだけれど、それと同じように、小説家にとっての文章というのは、いちばん才能が露骨に出てしまうところだ。


そういえば、人に薦められて、辻仁成の『ピアニシモ』を読んだのだけど、特に最初の方の文章は耐えがたかった。
たとえば、「猫のひたいほどのコンクリートのグラウンド」とか、「排気ガスと騒音が奏でる街のBGMをバックに、乱立するビル群」とか、「言葉は喉元で戦意を喪失した」とか。簡単に言えば、ステレオタイプな文章。
後半になると、物語に勢いがついてくるせいか、文章でかっこつけようという感じがなくなって少しほっとしたけど、んー、いくら若気の至り(と言っても30歳の作品らしい)とは言っても、こんな文章を書いてしまった人を認めるわけにはいかない。